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鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その4

2012-11-25 05:31:35 | Weblog
 坂口安吾の文学碑の前を通過し、土手から下流方向に見えた幸橋(さいわいばし)のたもとに到着したのが8:14。

 この幸橋を渡る道路は、足利方面へと続いているようであり、菱町の「絵カルタ」案内板に興味を持った私は、桐生川の土手を南下せずにこの幸橋のところで左折することにしました。

 左折してしばらくしてぶつかった交差点が「菱町三丁目」交差点。その交差点を突っ切ってしばらく歩くと、「菱ハイキングコース案内図」というものが現れました。

 それによれば現在地は「文昌寺口」であり、ここから左手の道へと入っていけば文昌寺があり、さらに進んで行けば左手に「ガッチン山」を見て「普門寺」に至り、さらに「下菱雷電山」や「観音山」を経て「中尾根」に至ることがわかります。

 「観音山」というのは、桐生天満宮や桐生本町2丁目の通りから東側に大きく見えたあの山のことでしょう。

 その案内図の前を通過してしばらくして立っていた「文昌寺」の看板には、「子育水子地蔵の寺」と記されていました。

 「おりひめバス」の「菱小学校前」を通過したのが8:19。

 この通りの道路標示には「県道227群馬 (一)小俣 桐生線 桐生市菱町」とあり、この県道が「桐生」と「小俣」を結ぶものであることがわかります。

 まもなく左手に鉄筋コンクリート3階建ての「菱小学校」が見えてきましたが、そのグラウンドの門脇(左側)に、またまた「絵カルタ」案内板を見つけました。

 それには、

 「た 多行松(たぎょうまつ) 児童とともに 百余年」

 解説文によると、菱小学校が創立されたのは明治6年(1873年)のことであり、桐生小学校第4分教校として泉龍院というお寺内に設けられたという。

 現在地に移転したのは明治36年(1903年)のこと。

 その年4月に移転を記念して植えられたものであるようです。

 グラウンドのゲートの左脇に、幹の色つやがよく、そして形の整った松樹が樹勢旺盛に枝葉を広げていました。

 その前を通過して、「227 足利方面→」と記された道路標示を標示を左手に見て、「菱町二丁目」交差点を通過したのが8:22。

 観音山の下の「菱町四丁目」から「菱町三丁目」、そして「菱町二丁目」と歩いてきたことになり、このまま「足利方面」へとこの県道227号線(小俣 桐生線)を歩いていくことにしました。

 この道筋に、これから先どういう「絵カルタ」案内板が現れるのか、楽しみになってきました。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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