鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その7

2012-11-28 05:09:58 | Weblog
『桐生百景』(服部修)によると、桐生川には数ヶ所の堰が設けられ、そこから水路が引かれて「灌漑用水」として利用されるばかりか、飲み水・洗い物・糸ゆすぎとしても利用されたという。挙げられている堰の名前は、大堰・金久津・兎・徳蔵など。この水路は枝分かれして田園地帯や街中を縦横に流れ、崋山が記すようにその水路には水車が設置されて、その水車を動力として撚糸が行われていました。水路が引かれたのは桐生川からばかりでなく、渡良瀬川からも引かれました。新宿(しんしゅく)は「水車と機屋の町」であり、そこには渡良瀬川から引かれた「赤岩用水」が流れていました。ここの水車は最盛期には291基もあったといい、新宿のどこの路地からもハタ音が聞こえるほどに繁盛した時代があったという。『桐生彩時記』(桐生タイムズ社)によると、幸田露伴は明治22年(1889年)1月に足利を経て桐生に到着。本町五丁目の金木屋に投宿していますが、金木屋に至る途中で「新宿」を歩いています。彼はそこで見た風景を次のように記しています。「町中を流れる小溝の水の力をかりて水車を装置したる家極めて多く、水車かけぬ家は却(かえ)って少なきまでなり。」 明治中頃の新宿の水車風景を描写した貴重な文章です。『桐生史苑』第十二号の「桐生界隈の水車と水路」(須田米吉)によれば、大堰用水は梅田村地先の桐生川より取水し、町屋→押出し→宮原を経て本町通りを南下して新川に落ちていたという。また兎堀用水は芳毛村北端の兎堰から桐生川の水を取水、芳毛村→東安楽土を経て「山の腰」で桐生川に注いでいました。また菱村には金葛堰・吉兵衛堰・原堰があって、桐生川の水を取水していたとのこと。赤岩用水も含め、それらの用水には数多くの水車が設置されており、そのほとんどは撚糸(八丁撚糸機)のための動力として使われていました。 . . . 本文を読む