鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.10月取材旅行「桐生~小倉山~要害山」 その4

2012-11-04 05:56:23 | Weblog
眞尾(ましら)源一郎さんの『毛武と渡邊崋山に関する新研究』(非売品)によれば、岩本家の墓地は、「観音院の西南四五十間許(ばかり)」、「観音院と諏訪神社との中間」に「約三十坪程の長方形」の墓地の一画にあるという。私はまだその岩本家の墓地には足を運んでいませんが、同書によると、そこには初代茂左衛門夫婦の墓と並んで、喜太郎妹てる(玉窓徳本童女)、庄助女菊(清蓮智法童女)、庄助娘里の(相譽容好信女)〔てると里のにはついては並刻〕のお墓があるとのこと。喜太郎には妹てるというのがいたけれども、病気か何かで幼くして亡くなったらしい。「庄助」というのは2代目茂兵衛のことであるようですが、この2代目茂兵衛夫婦は故あって岩本家から出され、堤村の谷(やつ)仲右衛門の二男が見込まれて初代茂兵衛夫婦の養子となり3代目岩本茂兵衛となったのです。『毛武と渡邊崋山』(上毛郷土史研究会)によれば、茂登の姑「幸」は、「黄楊(つげ)のお婆さん」と言われ、常に黄楊の小櫛を横鬢(びん)に挿し、「赤い羅宇の長煙管」を手に長火鉢の前に座っていたという。また桐生の「紗綾市」にも自ら出て商売をしていたこともあったとのこと。初代茂兵衛との間に子どもは出来なかったようだが、商才もあるし、教養も豊かであり、そして気配りも行き届いた女性のようであり、夫である初代茂兵衛や3代目茂兵衛の活躍をしっかりと支える存在であったように思われます。 . . . 本文を読む