鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.夏の取材旅行「九面~小名浜~棚倉」   その3

2012-08-31 05:44:39 | Weblog
平潟から棚倉へと向かう「棚倉街道」は、私は勿来(なこそ)から朝日山(標高797m)のそばを通過して棚倉へ至る国道289号線であろうと推測し、前にそのように記したことがありますが、いったん平潟港へと行き、国道6号線で国道289号線への分岐点へと向かう途中、どうもそれではないのではという思いが込み上げてきました。

 そのルートであれば、九面(くづら)浜か場合によっては小名浜を利用した方が便利だと思われたからです。

 棚倉藩がわざわざ平潟を飛び地としたことは、ここからの廻米ルートを重視したからであり、阿武隈山地を越えてすぐに平潟港に出ることが大切であったはずです。

 ということで途中で道を引き返し、平潟から棚倉へと向かう道を探すと、その道は「平潟隧道(トンネル)」を抜けた先にあり、そこで右折してその道へと入りました。

 すぐにJR常磐線の踏切にぶつかり(8:51)、その名前を調べてみると、「上野村県道踏切」とありました。踏切を渡ると、右手に「村社八坂神社」の石鳥居があり、石段が上へと続いていました。

 道幅は旧道の幅を保っているように思われます。道を含めた景観も、かつての街道筋をしのばせるものがある。

 田園地帯を走って、やがて途中で右折。「槻木下」という北茨城市のバス停を過ぎ、「富士ヶ丘十字路」という信号のある交差点に達したのが9:06。

 ここで左へと折れるミスをしてしまい、そのことにしばらくして気付いてから、この交差点へと戻り、そこを直進していくとやがて林道のような山道へと入っていきました。

 この道が「県道27」号線であり、別名「塙大津港線」であって、「ここは北茨城市関本町富士ヶ丘」という地名標示を見たのが9:32。

 このあたりは「関本町」という地名であることがわかります。

 「ここは北茨城市関本町才丸」という地名標示を見掛けたのが9:42。

 そして花園オートキャンプ場前に出たのが9:48。

 そこには「花園花貫県立自然公園案内」の看板がありました。それによると近くには、花園渓谷・花園神社・シャクナゲ原生林・花園山・七つ滝・栄蔵室山・和尚山・小川原生林などがあり、県道塙大津港線が渓谷沿いに走っています。

 そこに立っていた「トレールマップ」を見てみると、現在地は「花園橋」というところで、左手の道を入って行くと「花園神社」があり、「栄蔵室登山口」があり、「七つ滝入口」があります。

 「県道27号(塙・大津線)」は、「花園橋」をわたらずそのまま直進し、「花園渓谷」沿いに北へと続いています。

 それを確認して、さらに進んで行くと、「うつくしま ふくしま ようこそ福島県へ 塙町」と記された道路標示が現れたのが10:16。

 「大蕨字下り藤」とい地名標示を見掛けたのが10:24。

 そこからまもなく、人家の点在する開けた田園地帯へとようやく出ることになりました。

 約1時間半ほどの行程でしたが、途中の山間部では車が一台通るのがやっとのような林道のような山道(峠道)もあり、出会う車もごくまれでした。

 昼はともかくも、夜走るのはためらわれる(場合によっては道に迷ってしまう)ような県道でした。

 塙町は「天領」すなわち幕府領であり、「向ヶ岡公園」には、「寺西代官御定書 寺西八ヶ条 天領の里」と記された案内板がありました。

 そこからまた30分ほど車を走らせて、棚倉城(亀ヶ城公園)内の町立図書館に着いたのが11:23でした。

 あとで『北茨城市史上巻』の「平潟街道」(「棚倉街道」)の記述を確かめてみると、「平潟街道」のルートは、平潟─山小屋─才丸─山小川─那倉─大畑or大蕨─川下─北野─棚倉というものでした。

 「山小屋」は関本町富士ヶ丘あたりをさし、「才丸」や「大蕨」といった地名は途中に地名標示としてあったから、この県道27号線すなわち県道塙大津港線が、かつての「平潟街道」(平潟側から言えば「棚倉」へと向かう道、すなわち「棚倉街道」)とほぼ重なっていることはまず間違いがありません。

 『北茨城市史上巻』によると、この街道を利用して、米・煙草・塩・生肴・海産物などが牛馬、とくに牛によって運ばれたのであり、「港(平潟港)と内陸部を結ぶ街道として非常に重要な役割を果たしていた」のですが、車で走ってみても、山道やいくつもの峠道を越える難儀な道であったろうことが推測され、ここがかつては重要物資が牛で活発に運ばれた道であることは、正直言ってなかなか想像しがたいほどでした。


 続く



○参考文献
・「港町銚子の機能とその変容─荒野地区を中心として─」舩杉力修・渡辺康代(『歴史地理学調査報告 第8号』所収論文)
・『北茨城市史 上巻』(北茨城市)


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