相次ぐ異国船との遭遇や異国人の上陸事件(大津浜事件)に危機感を募らせた水戸藩は、文政8年(1825年)の4月、海防農兵制度を定めます。それは「海岸三処に郷同心五十人ツゝ定番ニナル」というもので、「三処」とは磯浜・河原子・川尻の三ヶ所。それぞれに農兵(郷足軽)50名を常備させるというもの。50名の内訳は猟師(火縄銃を持つ)10名に農民40名。しかし実際には計画通りに進まず、農兵(郷足軽)が新規召し抱えになったのは同年5月29日でしたが、その人数は1ヶ所に25人ずつ、つまり計画の半分でした。郡奉行梶清次衛門は河原子の海防指引役兼務を命じられ、それからしばらくの間、河原子は日立地方における政治の中心地となり、水戸藩の指令や通達はすべてこの河原子郡庁から伝達されるようになったという。つまり河原子は幕末における水戸藩の海防体制上において、重要な位置を占めていたということになります。 . . . 本文を読む