鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」関宿その2

2011-01-12 06:16:13 | Weblog
渡辺崋山や関宿についての関心が深まるきっかけとなったのは、昨年秋に江東区立中川船番所資料館を訪ねたことにある。そこで崋山が描いた中川船番所の絵(『四州真景図』の一枚[複製])を見たことや、小名木川を通して利根川水運について詳しく知ったことが大きい。小名木川が隅田川と接するところ、万年橋の北岸に深川番所が設けられたのは正保4年(1647年)頃。それが中川口に移転したのが寛文元年(1661年)のこと。しかし関宿関所は寛永8年(1631年)にすでに幕府により設置されていました。江戸地廻り物は、「下らない物」とされていましたが、江戸時代中期以降になると、関東地方や東北地方においても特産品の生産が盛んになり、利根川水系の水運は活発化。利根川高瀬船を中心とした輸送船(江戸への直行便)は、利根川と江戸川の分岐点にあたるところを通過しました。そこにあったお城が関宿城であり、関宿の利根川を挟んだ対岸にあったのが境河岸でした。境河岸のある境の集落は、物資の集散で非常に賑わったところであるということも、それから以後知ることになりました。渡辺貢二さんの『高瀬船』によれば、境河岸には、米沢や最上から紅やろうそく、漆、青麻などが奥州街道を経て運ばれ、それらの物資がここから江戸川を下ったというし、信州方面の廻米も、上州倉賀野河岸から船に載せられ、利根川から江戸川へと運ばれたらしい。関宿は、かつて日本三大河港の随一といわれ、向河岸・内河岸・行人河岸の三河岸があったといい、そのうち「向河岸」は「お江戸日本橋の飛び地」と言われるほどに賑わったところであるということについても、同書から知りました。渡辺さんによれば、「正式には、船着場と問屋と所属船があり、幕府の公認を受けた河港を『河岸』」といい、河岸問屋は、商品の売買に加わらない純然たる運送業者のことをさし、荷問屋は、海産物を扱う浜方問屋や雑穀を扱う雑穀問屋のことをさしました。関宿向河岸の喜多村藤蔵(通称「喜多藤」)は、河岸問屋が本業であり、海の帆船11艘、川の伝馬船500艘を所有し、東海から中国・四国に及ぶ全国各地に取引先を持つ豪商であったという。境町には青木兵庫家・小松原五右衛門家などの豪商が存在。しかしその関宿も境町も、河岸とともに栄え、そして河岸とともに衰退していきました。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」関宿その1

2011-01-11 05:29:12 | Weblog
本行徳河岸から木下(きおろし)街道を進んだ崋山一行は、その日(文政8年[1825年]6月29日)は白井宿の旅籠屋「藤屋」に泊まり、翌日は浦部あたりから手賀沼に出て、船を雇い、手賀沼あたりの古跡を探索。夕暮れに木下河岸に到着してその問屋で夕食を摂り、ふたたび船に乗ってその日の深夜(夜10時頃)津ノ宮河岸に到着して、「佐原屋」という旅籠屋に宿泊しています。現在JR成田線に木下駅というのがあり、この近くの利根川の河岸(木下河岸)を崋山一行は利用しています。山本忠良さんの『利根川と木下河岸』によれば、銚子で「なま船」に載せられた鮮魚は、夕刻に銚子を出発し、翌未明に木下または布佐に到着。そこから馬の背に揺られて、木下の場合は本行徳へ、布佐の場合は松戸へと運ばれたという。その道筋をそれぞれ「行徳みち」、「松戸みち」と言いますが、行徳側からは「行徳みち」を「木下街道」と呼ぶ。この「行徳みち」は鮮魚輸送の本街道で、「松戸みち」はその脇街道のようなものでしたが、後には「松戸みち」が鮮魚輸送の面では逆転してしまったとのこと。木下河岸は米・材木・薪・炭(佐倉炭)・竹が積み込まれるところでもあり、また香取・鹿島・息栖(いきす)の三社詣に行く人々や銚子遊覧の旅人でも賑わったところ。崋山一行がこの木下街道(行徳みち)を歩いた時は、真夏であったから、馬の背による鮮魚輸送は活発ではなかったかも知れませんが、三社詣でなどの人々の往来で賑わっていたものと思われます。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」牛堀その5

2011-01-10 06:54:16 | Weblog
『ふるさと牛堀 人と水の歴史』によると、牛堀の集落には映画館もあったという。名前は「東栄倶楽部」。昭和5年(1930年)に開館して、昭和40年(1965年)頃に閉館したという。牛堀の水運は、昭和10年(1935年)の時点でも活発な動きがあって、「千歳屋」や「清水屋」といった宿は乗降客で賑わったという記述もあるから、「昭和5年」の「東栄倶楽部」開館の時には、まだ水運は活発であり、地元の人々はもちろん周辺各地からやってきた人々が、映画を楽しみ、それは映画が衰退期に入る昭和40年頃まで細々と続いたということでしょう。牛堀河岸には蒸気船の取扱所があり、蒸気船が寄港する「蒸気河岸」があったはずですが、ではその蒸気船はいつ頃から牛堀に寄港するようになったのだろう。山本鉱太郎さんの『新編 川蒸気通運丸物語』をひもといてみると、P14~15に「明治中期頃の通運丸航路図」というのがあって、東京蛎殻町を出た通運丸は、小名木川→新川→江戸川へと入って、江戸川を遡り、利根運河へと右折。利根運河を抜けて利根川に入って右折。佐原で横利根川へと入って、牛堀に寄港しています。牛堀からは潮来経由で鹿島などに向かい、あるいは霞ヶ浦の高浜や土浦、江戸崎などに向かっています。つまり通運丸で東京からやってきた場合、常陸利根川経由で北浦へ向かったり、あるいは霞ヶ浦方面へ向かう場合の分岐点が牛堀であったことになります。P47の「通運丸航路開設一覧」を見ると、深川扇橋~常州霞ヶ浦高浜河岸が開かれたのは、早くも明治10年(1877年)5月21日のこと。「1ヵ月6往復」とある。ということは、明治10年5月には、東京から蒸気船「通運丸」が横利根川経由でこの牛堀河岸に寄港し、常陸利根川を潮来や北浦方面(高浜)へと向かっていったことになります。高瀬船を見慣れてきた人々にとって、蒸気機関で定期運航する「通運丸」の出現は、いかに驚きであったことか。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」牛堀その4

2011-01-09 06:58:44 | Weblog
利根川高瀬船が大量に運搬したものは、しかし何といっても年貢米であったと思われます。北関東諸藩、東北諸藩の年貢米が利根川水系を利用して、江戸へと運ばれました。幕末の頃、銚子には、仙台藩2棟、米沢藩1棟、磐城藩3棟、笠間藩1棟の米蔵があったという。そのうち仙台藩は、荒野(こうや)村に陣屋を置いていたとも。この仙台藩は、江戸へと諸物資を運ぶため、潮来を飛び地にしており、潮来にはその仙台藩と津軽藩の蔵が設けられていたという話もあります。水戸藩の年貢米も、北浦→浪逆(なさか)浦→潮来→牛堀→横利根川→利根川本流経由で、江戸へと運ばれました。高瀬船は川を遡(さかのぼ)る時や湖を進む際には、風の力を利用するから、風が無い時や逆風の時には風待ちを余儀なくされる。潮来から利根川に至る中継地であり、そしてまた霞ヶ浦の風待ちの港であった牛堀は、したがって高瀬船による舟運においてきわめて重要な港であったのです。この牛堀近くの清水村の大崎家は、水戸藩領の庄屋を務めた旧家ですが、その大崎家に慶応元年(1865年)に生まれた大崎治郎太は、この地方の自由民権家として活動し中江兆民とも関わりがあったらしい、ということはこの取材旅行で初めて知ったことでした。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」牛堀その3

2011-01-07 06:08:59 | Weblog
鰹(かつお)・鮪(まぐろ)・ひらめ・こち・すずき・鯛(たい)などの鮮魚となると、これらは新鮮さが勝負だから、高瀬船で運ぶというわけにはいかない。「なま船」という猪牙船に乗せられて木下(きおろし)や布佐(ふさ)に運ばれて、そこからそれぞれ行徳(ぎょうとく)や松戸まで馬で運ばれ、行徳や松戸からはまた船に乗せられて、江戸川→新川→小名木川→隅田川→日本橋川経由で、日本橋の魚市場に運ばれました。新川や小名木川には、銚子に水揚げされた鮮魚を積んだ船がおびただしく日本橋へと向かったことになります。夏の暑い時期には、「活船」といって、生簀(いけす)仕立ての船で運ばれることもあったらしい。銚子を夕刻出船した鮮魚は、日本橋の魚市場で、三日目の朝売りに間に合うようにするのがしきたりであったという。(以上、『利根川と木下河岸』山本忠良[崙書房]などによる)。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」牛堀その2

2011-01-06 05:36:52 | Weblog
かつての銚子の庶民にとって「様」を付けるものは三つしかなかったという。それは「観音様」と「妙見様」と「玄蕃(げんば)様。「観音様」は私も訪れた「飯沼観音」のこと。「妙見様」は訪れていない。では「玄蕃様」とは何かというと、これは「田中玄蕃」のことであり、ヒゲタ醤油の開祖のことをさす。「ヒゲタ」と「ヤマサ」は、「ヒゲタの左大臣、ヤマサの右大臣」と言われたように、銚子を代表する醤油の二大メーカーであり、現在もそうである。銚子市公正図書館の本棚に『玄蕃日記』というのが何冊も納められていましたが、これは文化9年(1812)から明治5年(1872年)までの三代にわたる田中玄蕃の膨大な日記をまとめたもの。浜口氏にしても田中氏にしても、当時の商人(実業家)の懐の深さを感じさせる。「ヒゲタ」と「ヤマサ」の商標には、いずれにも「上」という小さい文字が印されていいますが、これは「最上醤油」であることを示しています。蔵出しされた醤油の入った樽は、船に積み込まれて、江戸を中心に関東各地へと運ばれました。銚子や野田の「醤油」は、江戸地廻り経済圏の発展の中で、関西からの「下りもの」をやがて駆逐してしまった、関東の物産の代表といっていい。「利根の直船」といい、銚子からじかに江戸へと物産を運ぶ船があり、その物産とは醤油や油粕、干鰯(ほしか)などでした。それらの物産を大量に積み込んで運ぶ船は、大体が高瀬船でした。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」牛堀その1

2011-01-05 06:18:19 | Weblog
崋山は、銚子の手前、潮来に牛堀経由で立ち寄り、宿泊しています。文政八年(1825年)7月2日のことでした。崋山一行3名が宿泊した宿は「いずみや泉助」。『四州真景図』には「潮来泉やより望む」という図があり、崋山らが宿泊した宿の窓からは、「一面の蘆の原のあいだに遠く近く水路が光る水郷風景を眺望」することができました。いったん宿で休憩した後、崋山らは潮来の遊郭を訪ねています。それがわかるのが『四州真景図』のうち「潮来花柳」。潮来の遊郭を大門外から描くとともに、女郎屋六軒の名前と引手茶屋一軒の名前が別に記されています。六軒とは、松本屋・大和屋・蓬莱屋・河内屋・庫太屋・四目屋、一軒とは「なかやど」。崋山一行も、引手茶屋「なかやど」から、その六軒の一つに登楼したと思われる。「潮来花柳」の図によれば、遊郭には黒木の大門があってそれが遊郭への入口。その大門を入って通りの両側に引手茶屋や女郎屋が並んでいます。正面には、蘆の茂みの向こうに黒板塀を持つ2階建ての茶屋が描かれ、その2階の部屋ではすでに宴会が繰り広げられている。大門の手前右手で腰を曲げて薪割りなどをしている男がおり、大門を入った通りには赤い着物に黒い帯の女が、禿(かむろ)らしき女の子を伴い、もう一人の女と挨拶を交わしている。『潮来遊里史』(大久保錦一編著)によれば、潮来遊郭は貞享元年(1684年)に開業。女郎屋は8軒前後で推移したらしい。遊女数は100名前後、引手茶屋は40軒前後もあり、船頭たちや旅人、また周辺の農村の男たちを集めてたいそう賑わったらしい。遊女の出身地は下総と常陸といった近辺地域が圧倒的に多く、その遊女たちのお墓は、『遊里潮来』(塚本新一郎)によれば、潮来の長勝寺と浄国寺にあり、その77名の戒名が同書P72~77に掲載されています。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」 銚子その5

2011-01-03 06:15:17 | Weblog
たとえば次のような記述。「岸につなげる船は風のこの葉の集るが如、屋根における蠣殻は夜の吹雪の積れるに似たり」。岸につなげられた船は、木の葉が風に吹かれて集まっているように密集しており、家々の屋根の白い蠣殻(かきがら)は、まるで夜の吹雪が降り積もったように見える、と訳せますが、岸辺に船が密集し家々の屋根には蠣殻が白く載せられていることがわかります。家々の屋根に白く蠣殻が置かれており、それが屋根に積った雪のように見えた景観は、崋山にとって印象的なものであったようですが、どうして蠣殻が屋根に載せられていたのかはよくわからない。今でも、そういう家は残っているのでしょうか。また次のような記述。「この頃の風に帆おろせし大船どもの、あなたこなたにしまの涌出たらんやうに纜(ともづな)をかけり」。帆を下ろして帆柱を突き立てた大船が、島が湧き出したように、あちらこちらに繋留されていると訳せます。この「大船」というのは東北地方からさまざまな物資を運んできた弁才船(べざいせん)であったと思われます。また大型の高瀬船も含まれているかも知れない。それらの帆を下ろした大型船が、利根川河口部のあちこちに、まるで島があちこちに水中から湧き出したかのように碇泊しているというのです。これらの記述から銚子の港(河岸)には、大小の船(漁師の舟も含めて)が群がり集まっていたことがわかります。『利根川水運黄金時代』(桜井源吾)によれば、明治20年頃までは銚子は千葉県第一の都市であったという。つまり下総第一の町であったということですが、その殷賑ぶりが、文政8年(1825年)の崋山の「刀祢河游記(とねがわゆうき)」からもうかがうことができます。一大消費都市江戸を背景とした海運と水運の結節点が、利根川河口部に開けた河岸町(港町)銚子であったのです。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」 銚子その4

2011-01-02 06:35:04 | Weblog
崋山一行3名は、7月3日に潮来を出立して舟で銚子に到着します。『渡辺崋山集 第1巻』には、『四州真景図』のうち、12枚が白黒の小さな図版で載っています。その中に、「常陸波崎ヨリ銚子ヲ見ル」「霧ヶ浜ヨリ海鹿島ヲ見ル」「犬吠埼胎内潜伊勢路浦」「クロハエ小湊」と題された絵があるから、崋山は、銚子の利根川対岸の波崎や犬吠埼なども訪れていることがわかります。銚子に到着した崋山は、荒野町の豪商行方屋大里庄次郎方で草鞋を脱いだらしい。「刀祢河游記(とねがわゆうき)」は、旅行後江戸に戻った崋山が、旧暦8月15日の名月の夜、稿本をもとに一巻を仕立て上げて、銚子でお世話になった大里庄次郎へ贈ったものですが、それは大里庄次郎と小林左伝、そして崋山の3名が、1ヶ月前の7月15日の夜、名月を鑑賞するために利根川河口部を船に乗って上下した時のことを思い出したものでした。それには大里庄次郎は、「この里に名のおへる一場のすき人にて名を桂磨といふ」と紹介されています。解説には、「行方屋」は、初代が常陸国行方郡島並村(茨城県行方郡麻生町島並)より、宝永元年(1704年)に銚子に移住し、代々、海産物問屋、利根川廻船問屋として手広く商売を営んだ苗字帯刀を許された名家であると記されています。その6代目が大里庄次郎(富文・1783~1845)。渡辺崋山の生没年が1793~1841であるから、崋山より10歳年上で、文政8年(1825年)当時、大里庄次郎は42歳(満年齢)、崋山は32歳(同)ということになる。「すき人」とは「風雅を解する人」という意味で、大里庄次郎は裕福な商人であるとともに、趣味人であり教養人でもあったのでしょう。おそらく「利根川上の夜船から観る盆の月は、それはそれは美しいですよ」と船遊びに誘う大里庄次郎に、崋山は意気投合し、荒野村の宿に泊まっていた小林左伝を誘って、利根川の河岸場から船に乗ったのです。この「刀祢河游記」には、当時の銚子の河口部の様子がうかがえる文章が出てきて、たいへん興味深い。 . . . 本文を読む

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」 銚子その3

2011-01-01 06:52:48 | Weblog
文政8年(1825年)の夏、渡辺崋山が「四州」の旅に出かけた時、道案内を兼ねて崋山に同行したのは小林左伝という人物(もう一人は荷物などを運ぶ崋山の下僕であったと考えられる)。この小林左伝という人物について詳しく書かれていたのは、『渡辺崋山集 第1巻』の解説でした。それによれば小林左伝(蓮堂)は、崋山が住む三州田原藩邸(上屋敷)から、さほど遠くないところに住んでいたと考えられる人物ですが、身分や出身については詳しいことはわからない。崋山が「お銀さま」を訪ねて相模国へ旅した時、厚木で「鉄物屋」(金物屋)を営む溝呂木宗兵衛宛の手簡を携えていましたが、それは小林左伝(蓮堂)が書いたものであり、それは溝呂木宛に崋山を紹介するもの(紹介状)であると思われ、小林左伝が厚木の商人溝呂木宗兵衛と何らかのつながりがあった人物であることを示しています。またこの小林左伝は、銚子の豪商行方(なめかた)屋の六代目大里庄次郎(富文)とも面識があり、崋山はその小林左伝を通して行方屋と面識があったとも記されています。行方屋は銚子に本店があり、江戸に出店を持っていたようだ。といったことから考えると、この小林左伝という人物は、武士というよりも、江戸地廻り経済圏内での何らかの商売に関係していた江戸在住の商人であった可能性が高い。崋山の文政8年(1825年)から天保11年(1840年)にかけて足掛け17年、いやそれ以上の年月の付き合いのある、親しい商人の一人ではなかったかと考えられるのです。 . . . 本文を読む