鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その11

2009-12-18 06:22:27 | Weblog
樋口一葉の父、樋口則義の日記である「大吉日記」によれば、大吉と古屋あやめは、江戸の真下専之丞を頼るべく、安政4年(1857年)の4月6日(旧暦)、二人の郷里である中萩原村(現甲州市塩山中萩原)を出立。「御坂みち」に出てその日は御坂峠の登り口である藤野木に宿泊し、翌日は御坂峠を越え、河口村・河口湖を経て上吉田を通り、北口浅間神社をおそらく参拝し、その日は山中村の「鳴海屋」という宿に泊まりました。この宿は私が歩いた山中湖村の旧街道沿いにあったと思われますが、どのあたりであったかは今のところわからない。翌4月8日、二人は籠坂峠を越え、須走より竹の下へ出て足柄峠を越えると矢倉沢の「ふじや」という宿に泊まりました。それから東海道へ出るべく小田原方面へ向かって行くのですが、私が歩いてきた道は、この二人が歩いてきた道でもある。二人がたどってきた道を、私もたどっているということですが、この旧鎌倉街道沿いは(「御坂みち」)も含めて、富士山を中心に歴史が詰まっているところであるということを実感しています。相州・駿州と甲州を結ぶ古代以来(縄文時代以来)の重要路であるからでしょう。といっても旧鎌倉街道の面影を留めているところは、他の街道と同じくそれほど多くはありません。しかし、その一部の「御坂みち」の峠道を中心とする部分などは、旧道の面影を濃厚に留めています。いろいろな角度からいろいろなシチュエーションで富士山が見えるなど、歩いていて大変楽しい道でした。大吉とあやめの旅は、「出奔」とか「駆け落ち」と言うほどの切羽詰ったものではなく、人目を極度に避けるものでもありませんでした。これからの「立身出世」の夢に燃えた旅(大吉にとっては)であり、あやめにとってはそういう志(こころざし)に燃える大吉に連れ添う旅でもありました。二人は江の島や鎌倉の鶴岡八幡宮などを参拝していますが、おそらく河口村の浅間神社や吉田の浅間神社にも参拝しているはずです。それは「立身出世」を果たすための将来に向けての願掛けでもあったでしょう。それぞれの社前において手を合わせた二人は、どういうことを願ったか。この安政4年(1857年)、江戸へ出る旅をした時、大吉は27歳、あやめは23歳でした。あやめは妊娠9ヶ月。江戸到着の一ヶ月後に生まれたのは一葉(奈津)の長姉である「ふじ」という女の子でした。 . . . 本文を読む