鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

今年一年間を振り返って

2009-12-31 07:34:38 | Weblog
 樋口一葉の短い一生(1872~1896)は、中江兆民の生きていた時期(1847~1901)の中に含まれます。といっても兆民の一生もさして長いものではなく、54歳で亡くなっており、現在の私の年齢よりも若い。

 一葉に私が関心を強めたのは、一葉の記した日記によるところが大きい。一葉の日記には彼女が接した多くの人々が登場し、その人々の境遇や暮らしぶりや、会話の内容までも知ることができる。

 一葉の母多喜(古屋あやめ)が樋口大吉とともに中萩原を出て(安政4年〔1857年〕4月6日)江戸を目指し、江戸で奉公した先(乳母として)は湯島四丁目の二千五百石の旗本稲葉専之助の屋敷でした。

 あやめが乳を与えた乳児は「こう」という名の女の子(稲葉専之助の養女)。

 あやめは、同年の6月21日にお目見えを済ませ、24日から稲葉家に移りました。

 この稲葉家および稲葉こうという女の子は、幕末維新の動乱の中でどうなったか。

 一葉にとってこの稲葉こうという女性は、乳姉妹(こうが姉にあたり一葉か妹にあたる)であり、母多喜にとってはかつての奉公先のお姫さまであり、こうにとっては多喜はかつての乳母にあたることになります。

 日記には、こうの夫が人力車夫となり、こうやその夫、そしてその間のこども(男の子)が、長屋に貧しく過ごしている場面が出てきます。

 幕末維新の激烈な変動の中で、この旗本稲葉家のように貧窮のどん底に陥っていった幕臣たち(諸藩においても家臣たち)は数え切れないほど多数おり、その家族たちの中で、若い娘がいれば場合によっては身売りをせざるをえない状況に立ち至った者も数多くいたのです。

 そのことは吉原遊廓の遊女たちの出身を調べていく中で確認することができました。

 稲葉こうは、そういう状況にまでは至らなかったけれども、その後、こうの夫や子どもはどういう人生をたどっていったのか。一葉の日記には、その後のこうの家族の行く末については何も記されてはいません(一葉自身が肺結核のため若くして死んでしまったため)。

 一葉の日記に登場してくるのは、稲葉こう以外にもさまざまな人物が登場してきますが、父則義(樋口大吉)が甲州塩山の中萩原村出身ということもあって、その親族や甲州出身の者が多い。

 それらの人々はさまざなま境遇にあり、さまざまな悩みや問題を抱えて生きています。

 一葉自身も恵まれた境遇から、父の事業の失敗やその死(また長兄の死)をきっかけに、一家を支えるべき戸主としての生活を余儀なくされていきます。駄菓子などを売る店を開くために吉原近くの龍泉寺町で長屋住まいを経験することにもなり、また質屋通いを繰り返します。

 自分の境遇が大きく変化した時、一葉の目に見えてきたのは、幕末・明治の激動期に貧困生活に陥り、場合によっては身売りをせざるをえない状況に立ち至ってしまった(自身の責任ではなく、そういう状況を余儀なくされてしまった)女性たちの姿でした。

 まかり間違えば、私もそうなっていたかも知れない、あるいはそうなってしまうかも知れないという自覚のもとに、一葉は、稲葉こうや、吉原の遊女たち、その他の女たちを見ていたのではないかと私には思われます。

 こういう貧しい人々がうごめく世界を一葉は活写し、社会の最底辺でそういう人々が生きている現実、一葉が目にした現実を、おそらく同時期に生きていた兆民も目にしていたと思われるのです。

 兆民が東京を歩き回った時、彼の視界の一部にそういう最底辺を生きる人々が写っていたはずであり、その人々の生活を、そちらの側から日記や小説世界で写し出した女性が一葉であったのですが、そういう意味合いから、私は一葉の日記に強く興味を引かれたのです。

 一葉への関心から、私は中萩原村出身の真下専之丞という人物(幕府の大官となる)を知りました。一葉の両親が江戸に出たのは、この真下専之丞を頼って立身出世することにありましたが、一葉の父大吉が真下の斡旋で働いたところは、アメリカの初代駐日公使ハリスが滞在するということで忙しくなっていた蕃書調所でした。

 大吉は蕃書調所の小使の一人として、ハリスやヒュースケン、また蕃書調所の役人や学者たちといろいろ接することがあったものと思われます。

 このあたりのことも興味が引かれるところです。

 前に記したように、一葉への関心から、今年の秋以後は取材旅行の行き先として山梨県に行くことが多くなりました。

 御坂みちを歩き、御坂峠を越えていくことで、富士山の美しさを再認識することにもなり、また「峠道」の魅力というものについても再確認することになりました。

 この甲州地方(さらには相州・三多摩地方など)と、横浜や江戸(東京)が、幕末・明治期にどういうふうにつながっていくのか(陸上交通・水上交通〔富士川水運〕・海上交通・文化文物など)、今後しばらく、私の大きなテーマの一つになっていきそうな気がしています。


○参考文献
・『樋口一葉と歩く明治・東京』野口碩監修(小学館)
・『日本民家園物語』古江亮仁(多摩川新聞社)
・『樋口一葉と甲州』(山梨県立文学館)


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