鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その5

2009-12-11 06:57:16 | Weblog
『冨嶽写真』には、「甲斐の富士 北口(吉田)」の古写真として、8枚の写真が収められています。そのうち金鳥居が写っている古写真が3枚。撮影地点は金鳥居のやや北側。金鳥居越しに、あるいは金鳥居の枠の中に、南側の雪を被った富士山を望み見ています。ベアトと臼井の写真(P11の上と下)については、撮影地点は両者とも、現在の「御師の家大雁丸」の案内板がある地点の路上あたりが比定されています。この4枚には、上吉田の本通り(参道)が写っていて、その通りの変遷をうかがうことができます。その通りから外れたところで写されたものが残りの3枚。P13の写真は、旧吉田小学校の2階建て校舎から撮影したとされるもの。現在、その地にはコミュニティーセンターが建っています。本通りを西に100mほど入ったところです。P14とP15の写真は、2枚ともベアトが写したもので、P14のそれは浅間神社の杜の東側を流れる間堀川に架かる吉田橋のやや北側から、吉田橋に立つ武士と野良着姿の男、そして吉田橋に腰掛けるやはり野良着姿の男、合わせて3名と、その向こうにそびえる富士山を写したもの。富士山には雪があります。P15のそれは、現在の富士吉田市上暮地と西桂町小沼の境となる場所から、桂川の流れ越しに富士山を撮影したもの。丸太を持って川面を見詰めている農夫の後姿が写っています。解説には、「この写真もF・ベアトによるもので須走や吉田のカットと同じアルバムに綴られていることからも、一連の写真ではないかと考えられます」と記されています。上暮地は、都留や大月へと向かう「都留みち」の道筋にあり、ベアトは須走→籠坂峠→山中湖→浅間神社→上吉田→谷村→大月→八王子→横浜という道筋を辿ったのかも知れません。もしそうであるとするなら、この撮影旅行は、ポルスブルック一行のそれとは重ならないことになり、ベアトはポルスブルックの富士登山の旅の時以外に、富士山周辺を訪れたことになります。それがいつのことかは、前に触れたとおり、今のところ確定はできませんが、慶応2年(1866年)6月以後であることはほぼ確実です。臼井秀三郎とヘンリー・ギルマール一行は、明治15年(1882年)7月13日頃に上吉田を通過しています。ギルマールはこの吉田あたりが養蚕地であることに気付き、また家の板葺きの屋根に置かれた石などからスイスの風景を想起しています。 . . . 本文を読む