鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その2

2009-12-08 03:31:21 | Weblog
実は、今回私が歩いた富士吉田~御殿場間を、かつて鉄道馬車が走っていた時代がありました。瑞穂村(下吉田付近)~中野村籠坂間が「都留馬車鉄道」で、中野村籠坂~御殿場間が「御殿場馬車鉄道」でした。「都留馬車鉄道」が開業したのは明治33年(1900年)9月21日(軌間2フィート2インチ)、新橋村(後の駿東郡御厨町で御殿場市の前身)~御殿場駅~中野村籠坂までが全通したのが明治34年(1901年)12月9日。さらに明治36年(1903年)には富士馬車鉄道が全通して、静岡県の御厨町と山梨県の大月を結ぶ全長およそ55キロメートルの馬車鉄道が完成しました。しかし中央線の開通などもあって客足は減少し、大正7年(1918年)2月19日、須走~籠坂間が廃止され、富士吉田と御殿場を結ぶ馬車鉄道はなくなってしまいました。その翌年の大正8年(1919年)4月には須走~御殿場間も廃止。昭和3年(1928年)には御殿場馬車鉄道は全線が運転休止となってしまったのです。都留馬車鉄道の籠坂までの路線がいつなくなったのかは、今のところ私にはまだわかっていませんが、大正7年の御殿場馬車鉄道の須走~籠坂間の廃止前後にはなくなっていたと思われます。ということは、富士吉田と御殿場を結ぶ鉄道馬車が走っていた時期は、明治34年(1901年12月)より大正7年(1918年)前後頃まで、およそ16年間であったということがわかってきます。この富士山麓を走っていく鉄道馬車の存在を知ったのはずいぶん前のことですが、それが確かに存在したのだという実感を持ったのは、以前、須走浅間神社を訪れた時に立ち寄った浅間茶屋のご主人Tさんの話からでした。Tさんの話によると、幼少の時、茶屋の前には軌道が残り(当時すでに廃線となっていましたが)、車両が放置されていたというのです。現在、鉄道馬車の軌道があったあたりは町営の駐車場になっていますが、そこを鉄道馬車の軌道が走り、その軌道の上を馬車が走っていたのです。この浅間茶屋があるところは、須走口浅間神社の富士山側になり、実はかつての須走口登山道の入口にあたるところでした。馬車鉄道はこの浅間茶屋のほん前を通過し、籠坂峠へと登っていき、また御殿場方面へ下って行ったのです。現在のバス路線はほぼこの馬車鉄道の軌道に重なるもの。ということは、この馬車鉄道は、当時全国有数の景観を楽しめるものであったに違いない。 . . . 本文を読む