鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その17

2015-06-29 05:30:03 | Weblog

 「よらまいか」は音羽町が設置した赤坂宿の休憩所で、旧東海道の赤坂宿をイメージして、在来木造軸組工法で建てられているとのこと。

 内部の壁には「赤坂の文化財(絵画・彫刻・工芸)」の写真と解説が掲示されています。

 そこから少し離れたところに「音羽生涯学習会館」があり、その2階の奥に「赤坂宿場資料室」がありました。

 「高札」の説明によると、赤坂宿の高札場は、陣屋の近く(よらまいかん東側)にあり、間口二間の瓦葺であったという。

 「赤坂陣屋(代官所)」のパネルによると、赤坂は江戸幕府成立から解体まで幕府領(天領)であり、三河国内の幕府領を支配するための陣屋(代官所)が置かれていた、とのこと。

 江戸時代の初め頃は、長沢松平一族が代官を務めていたが、代官国領半兵衛(1682-86)の時に、牛久保(豊川市)から陣屋を赤坂(大藪地内)に移転させ、三河国の天領の大部分を支配するようになったという。

 しかし大藪は土地が低く、大雨のたびに浸水したので、元禄2年(1689)に神木屋敷(正法寺と浄泉寺の間)へ移転したのだという。

 「勢州安芸郡野田村(現在の三重県津市)」に住む23歳の娘むめが諸国巡拝に出かけた時(文久4年のこと)の「往来手形」も展示されていました。

 「旅籠屋と飯盛女」のパネルには、「飯盛女」についての説明がありました。

 それによると「飯盛女」(食売女、飯売女)とは、泊り客の食事や寝具の世話を目的に旅籠屋に置かれていたが、遊女的な役割も担っていました。

 赤坂宿の飯盛女は元和8,9年頃、2軒の旅籠屋で抱え始めたと言われ、その後、多くの旅籠屋に置かれるようになるが、正徳2年(1712)の赤坂宿の取り決めによると、表間口4間以下は2人、5~6間は3人、8間以上は4人としているとのこと。

 赤坂宿の繁栄は飯盛女によるところが大きかった、とも記されていました。

 赤坂が天領であり、また三河国の天領を支配する陣屋(代官所)があったところであるということは、ここで初めて知りました。

 「東海道と赤坂宿」のパネルには、芭蕉の句、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」について触れられていました。

 これは、夏の夜の短さと、赤坂宿・御油宿間の距離の短さを詠ったものだという。

 両宿場間はわずか16町(約1,7km)しかなく、2宿で1宿のような扱いになっているとのこと。

 その理由として、赤坂・御油は江戸以前からの宿場であり、近距離にも関わらずそれぞれ独立した一宿として東海道の宿場に位置付けられた、と記されていました。

 その「豊川市音羽生涯学習会館」を出た近くに、「赤坂陣屋跡(三河県役所跡)」の案内板があり、赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心地で、元禄2年以降、神木屋敷(現赤坂保育園付近)に移された、とありました。

 近くには正法寺があり、樹齢400年という「ウラツバキ」がありました。

 街道に戻ってしばらく進むと旅籠「大橋屋」があり(ここは以前立ち寄ったことがあります)、中に入って休息かたがた内部を見学させてもらうことにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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