鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その18

2015-06-30 05:01:48 | Weblog

  「旅籠 大橋屋(豊川市指定建造物)」という案内板によると、享保18年(1733年)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数400軒のうち、旅籠は83軒であったとのこと。

 5軒に1軒は旅籠であったということになります。

 この「大橋屋」は旧屋号を「鯉屋」と言い、正徳6年(1716年)の建築といわれるという。

 赤坂宿の旅籠では大旅籠に属し、間口九間、奥行き二十三間ほどであったとのこと。

 先ほどの「旅籠屋と飯盛女」の掲示パネルの解説によれば、間口八間以上は飯盛女を4人置くことができるということであったから、間口九間の大橋屋には飯盛女を最大4人置くことができたということになります。

 そのパネルによると、赤坂宿の旅籠屋の数は、天保14年(1843年)に62軒であったというから、享保の頃に較べると少なくなっていたということができます。

 また同じパネルによると、旅籠屋は、表口から土間が奥まで通じ、入り口に見世間があって、往還に面したところは2階建てが一般的であったとのこと。

 この大橋屋は、私がかって立ち寄った時には旅館として営業していたのですが、今回訪れたところ旅館の営業はすでにやめたらしく、建物内には自由に入れるようになっており、内部をゆっくり見学させてもらうことができました。

 「本陣跡」の案内板によると、赤坂宿の本陣は宝永8年(1711年)の町並図によれば4軒あり、そのうち松平彦十郎家は江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていたとのこと。

 宝永8年の間取り図によると、本陣の間口は17間もあり、大旅籠に属する大橋屋の間口の2倍近くあったことになり、その規模の大きさがわかります。

 「芭蕉『夏の月』句碑」があったのが関口神社の境内。

 もう赤坂宿の東端になります。

 崋山は、おそらくその旧碑(現在あるのは新碑)を見ているものと思われます。

 その関口神社前を通過してまもなく、御油の松並木が始まりました。

 ここも以前、その入口の空き地に車を停めて歩いたことがあります。

 松並木左手の様相が大きく変わっていました。公園として整備されたのです(御油松並木公園)。

 かつては竹林や雑木林が広がっており、川沿いの道を歩いて、その竹林や雑木林越しに松並木を眺めた記憶があります。

 この御油の松並木は昭和19年(1944年)に国の天然記念物に指定され、また「日本の名松百選」にも選ばれているという。

 音羽川に架かる「御油橋」を渡ります。

 この「御油橋」から音羽川を眺めた、かつての記憶があります。

 おそらく田原城下を訪問した際の、行きかの帰りのことであったかも知れません。

 しばらく歩くと「→三州御油宿 これより姫街道 遠州見付宿まで」と記された案内標示があり、その背後に常夜燈が立っていました。

 ここが「姫街道」への分岐点ということになります。

 「白鳥跨線橋」(名鉄名古屋本線をまたぐ橋)を渡る時、北方向に本宮山(ほんぐうさん)の全貌を望見することができました。

 跨線橋を越えた後、県道496号へと入りました。これがかつての東海道。

 「郷社 須佐之男神社」でいったん休憩を摂り、「伊奈村立場茶屋 加藤家跡」前を通過し、赴きのある「古民家カフェ もくせいの花」で昼食を摂った後、「宿西」交差点を通過。

 善光寺川、豊川放水路を越え、豊川の土手の石垣左手を歩いて、「親鸞聖人御舊跡」と刻まれた石柱のある聖眼寺(しょうげんじ)の山門前に出ました。

 この境内には「古碑松葉塚」や再建松葉塚があり、古碑松葉塚には「松葉を焚(たい)て手拭あふる寒さ哉(かな)」という芭蕉の句が刻まれているとのこと。

 この句は、芭蕉が愛弟子杜国(とこく)の身を案じて、渥美郡保美の里を訪れる途中、この聖眼寺に立ち寄って詠んだものであるという。

 尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後五十年忌を記念して建てられたものであるとのこと。

 再建松葉塚は、明和6年(1769年)に、吉田連衆の協力を得て、近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼(たい)て 手拭あふる寒さ哉」とあるという。

 「芭蕉翁」の3文字は白隠(はくいん)禅師、句は尾張の横井也有(やゆう)の筆になるものである、とのこと。

 崋山がこの聖眼寺の松葉塚に立ち寄ったかどうかはわかりませんが、立ち寄った可能性は十分にあると私は考えています。

 この聖眼寺からすぐのところに豊橋(かつての吉田大橋)の北詰があり、豊川の流れを眺めながら、対岸の吉田船町へと入りました。

 

 続く

 

〇参考文献

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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