鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その7

2011-12-22 05:43:37 | Weblog
 京成佐倉駅の改札口を出たのは11:03。「南口←国立歴史民俗博物館・佐倉城址公園」の案内標示に従って南口へ。

 駅前の案内マップで佐倉のおおよその地理を確認しました。

 駅前を右折して線路沿いに進むと、やがてその道は「旧成田街道」と重なり、その「旧成田街道」をさらに進むと、左手に堀があってその向こうに「国立歴史民俗博物館」があり、また「佐倉城址公園」が広がっています。

 その「佐倉城址公園」から「佐倉中」と「佐倉東高」の間を走る道があり、そこに赤丸で「大手門跡」とあって、さらにその道を進めば、「麻賀多(まかた)神社」の前を通って、「塚本美術館」や「市立美術館」、「図書館」「おはやし館」「歴史生活資料館」などが界隈にある通りへと出ます。

 「旧成田街道」はというと、「佐倉市役所」の前を通り、「麻賀多神社」の前を通る先ほどの通り(大手門跡から延びる道)と交わっています。

 「うるし坂」の近くには、「薬師坂」「くらやみ坂」「ひよどり坂」などの坂があり、「くらやみ坂」の近くには「武家屋敷群」があって、「児玉源太郎旧宅跡」とか「西村茂樹旧宅跡」という表示がしてあり、その武家屋敷群のうち「3棟」は「見学可」であるらしい。

 この案内マップからは、高低差はよくわからないが、堀を渡って「国立歴史民俗博物館」に向かうところに「愛宕坂」があることを考えると、「佐倉城址」は丘陵にあり、その丘陵を下っていくところにあるのが「うるし坂」や「くらやみ坂」、「ひよどり坂」などであることがわかってきます。

 「ひよどり坂」を下っていったところに流れる川が「高崎川」。この川が「佐倉城址」のある丘陵の外側を蛇行しており、この「高崎川」が佐倉城を守る堀の役割をしていたようであることがわかります。

 以上から判断すると、成田道(旧成田街道)は、江戸からやってきた場合、佐倉城のある丘陵を右手に見て、坂道を上がって丘陵上へと上がって、そこに広がる城下町を抜けて、成田方面へと続いていたものと思われます。

 先ほどの案内マップを見ると、左端に「佐藤泰然・舜海碑」「佐倉順天堂記念館」などの表示があり、そこは「本町」となっています。通りには「順天堂病院」というバス停があり、その通りは「←成田方面」とあって、成田へと続いていることがわかります。

 おおよその佐倉の地理を頭に入れて、「国立民俗博物館→」の案内標示に従って、駅前の通りを右手方向に歩いていきました。


 続く




最新の画像もっと見る

コメントを投稿