鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その6

2011-12-21 06:03:54 | Weblog
 滝は「光明堂」へ向かう途中の左手にありました。「雄飛の滝」と言い、高さは目測5mほどか。岩が積み重なったような崖の上から一本の筋となり音をたてて流れ落ちています。
 
 この滝壺からの流れが、下流で3つの池になっているわけですが、池はもともとあのようにあったとは思われず、かつてはまったくの樹林の中を滝壺からの流れが小川となって清冽に流れていたのではないか。

 この滝の場所が、成田山新勝寺「真言密教」の重要な修行道場の一つであったものと思われました。

 そこから坂道を上がると右手に「清滝権現堂」があり、立て札には「清瀧権現と地主妙見を合祀した当山の鎮守である」と記されています。

 その前を通過すると見えてくるのが「光明堂」。

 その手前に「成田山公園」と記された立て札があり、それには、この公園が明治時代から次第に拡張され、昭和3年に施工、さらに平成10年に大改修が行われたといったことが記されていました。

 あの3つの池が、いつ造られ、いつ整備されたのかは、この立て札からはわからない。

 「光明堂」については比較的新しい立派な案内パネルがあり、それによるとこの「光明堂」は、元禄14年(1701年)に建立された旧本堂。2回の改修を経て、安政年間に新本堂(現釈迦堂)の建立にともない、その本堂の後方に移築、さらに昭和39年(1964年)、大本堂建立の時に現在地に移転されたとのこと。

 ということは、もし崋山が成田山新勝寺を参詣したとして、その時の本堂はこの「光明堂」であり、崋山が見たはずの本堂は、この「光明堂」として現存していることになります。

 この「光明堂」は「重要文化財」となっており、案内パネルにも、「江戸時代中期における密教寺院の遺構の一つとして貴重な建物です」と記されています。

 では、この旧本堂は、崋山が新勝寺を通過した時にはどこにあったのか。

 「仁王門」や「三重塔」、「奥の院」「清滝権現堂」などの位置は変わっていないと思われるから、現在の大本堂のあたりにあったのではないか。

 このように見てくると、江戸時代の成田新勝寺の様子と、現在のそれとはかなり大きく異なっているようだということがわかってきます。もちろん成田道の参道の様子も、その周辺もかつてとは大きく変貌しています。

 「光明堂」を観た後、「額堂」(文久元年〔1861年〕建立)を右手に見て、階段を下り、大本堂と三重塔の間を通って、またまた階段を下って「仏教図書館」に足を向けましたが、開架の図書館ではなく、本の閲覧は断念しました。

 そこからいったん大本堂の前へ戻り、「仁王門」「総門」を潜って、表参道へと出て、京成成田駅へと向かうべく、表参道を駅方面へと戻りました(10:30)。



○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)


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