鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

松本逸也さんの『幕末漂流』について その2

2008-11-12 06:20:30 | Weblog
 この『幕末漂流』という本のカバーに写っている写真は、占拠した長州藩の前田砲台を囲んで集合した多数のイギリス軍兵士を撮ったもの(記念写真)。この写真は、生麦事件の現場写真(実はリチャードソンが落馬して斬り殺された場所)とともに高校の日本史の教科書に載っていたりして、もっともよく知られているベアトの写真のうちの一枚。

 ベアトは1864年(元治元年)、英米仏蘭四ヶ国艦隊の下関遠征に従軍写真家として同行。艦隊のリーダー(旗艦)であるイギリス軍艦ユーリアラス号に非戦闘員として乗り組み、9月7日、陸戦隊とともに上陸して、この前田砲台において兵隊たちの集合記念写真を撮ったのです。

 写っているイギリス人兵士は200人を超えるでしょう。一人一人の表情ばかりか服装や装備までもよくわかるし、さらに前田砲台の大砲の大きさや配置、その向こうの村落のようすまでもがわかります。

 同じ写真は、『F・ベアト幕末日本写真集』のP123にも掲載されていますが、この『幕末漂流』のカバー写真とは違って、その左半分でしかない。

 実は左右に大きく広がった写真であり、長州藩の大砲は左右に砲列をなしている(写真を見る限りでは大砲は左右に5門ずつ並ぶ)ことがわかります。その背後の山は円錐状を成している(そのふもと中央に藁葺き屋根の集落がある)ようだ。なぜ「写真集」の方が左半分だけになっているのかはよくわからない。左手の道路上には、英国国旗が翻っています。

 ベアトは、この写真を前田砲台の中央高台(陣地頂上部)から撮影しています。

 『幕末漂流』のハードカバーの写真は、同書P134~135の写真と同じ。説明によると、この写真は宿舎を出発するオランダ総領事らの一行だという。これもライデン大学所蔵の『甦る幕末』からの写真。オランダ総領事と言えばポルスブルック。お寺の玄関前と思われるところに一行20人ばかりが並んでいますが、その列の中央に白い洋服姿の外国人2人と黒い(?)洋服姿の外国人が写っています。三人とも顎髭を生やしています。

 この写真とほぼ同じ写真、しかし三人の外国人が写っていない写真があります。

 それは、『F・ベアト幕末日本写真集』のP145の上の写真。「夜警の役人たち」となっていますが、お寺の玄関の構造や横桁の文様なども全く同一。ということは、ほぼ同じ場所・時刻に撮影したものと思われます。すなわちこの写真は、オランダ総領事一行を警護する幕府の役人たちをその宿舎前で写したものと思われます。

 両方とも、ベアトが撮影したものであるということになります。

 撮影した年は、写真集によると1864年。場所は江戸。

 となると、このお寺(宿舎)は芝の西応寺(オランダ公使宿館)である可能性が高くなるのですが(芝の西応寺については2007.4.26の記事で触れています)、これについては今後詰めていく必要があると思われます。

 オランダ総領事ポルスブルックというと、慶応三年(1867年の秋)の富士登山、それにはベアトも同行、そしてその際にベアトが写した一連の写真…とつながっていくのですが、もしこの写真が1864年に撮影されたものであるとすると、ベアトとポルスブルックとの付き合いは、この年まで遡っていくことになります。


 続く


○参考文献
・『幕末漂流』松本逸也(人間と歴史社)
・『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F・ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』横浜開港資料館編(明石書店)
・『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿