鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

佐渡市小木町宿根木(しゅくねぎ)-その3

2019-01-15 06:49:55 | Weblog

 

 宿根木の歴史のあらましを振り返ってみると、宿根木の人々は大きな試練を少なくとも4回経験したことがわかります。

 まず1回目は、西廻り航路が開かれて、小木湊が大型弁財船の寄港地となったこと〈寛文12年〈1672年〉〉。

 確かに中世において宿根木は、廻船業によって佐渡の富の三分の一を集めるほどの繁栄を見せました。

 しかし湊自体は両側に陸地が張り出していて風除けにはなるものの狭小であり、大型船が多数碇泊するほどの余裕はないし、佐渡の物資を補給するにしても集落自体の面積は狭小で、川(称光寺川)は流れているけれども至って小さく水量の乏しい川で、井戸もわずかしかなく、水を補給するという点でも不便なところです。

 地理的な面、水や物資の補給といった点を考えても、小木湊が大型船の碇泊地〈寄港地〉に指定されたのはやむを得ないものと考えられます。

 しかし宿根木の人々にとっては深刻な事態であったでしょう。

 二回目は享和2年(1802年)の「小木地震」による海岸線の隆起〈1m余の隆起〉。

 小木湊が西廻りの寄港地に指定された後、宿根木は佐渡廻船の基地となり、やがて「北前型」千石船(大型弁財船)の造船基地として発展することになりました。

 船大工や、造船に必要な物資、生活物資などが諸国から集まり、廻船業とともに船大工の集住するところとして繁栄していましたが、地震による海岸線の隆起という事態に宿根木の人々は直面することになりました。

 湊の海底の隆起や造船場所である「大浜」の変化が推測されるのですが、その事態をどう乗り切ったかはわかりません。

 しかし文政7年(1824年)に廻船持ちが11名存在したり、天保11年(1840年)に宿根木の廻船が佐渡奉行所の御城米を大坂まで運んでいたりしていることを考えると、地震による海岸線隆起という事態も克服できたものと推測されます。

 3回目は弘化3年(1846年)の大洪水。

 これによって死者が45人、50軒の家屋が損壊しています。

 「大洪水」とあるものの、集落を流れる「称光寺川」はまるで用水路のように幅が狭く、川の長さも短い。

 いくら集中豪雨があったとしても、これが死者や損壊家屋を多数生じさせるほどの「大洪水」を生み出すようには思われません。

 私の推測ですが、これは土石流ではなかったか。

 「称光寺川」の上流部分(背後の山側の川沿い)が豪雨によって崩れて、大量の土砂や岩が土石流となって村に押し寄せたのです。

 川の流れや集落の地形を考えると、現在の宿根木公会堂があるあたりから川沿いの西側(集落の西半分で海浜へと至るまで)が被害を受けたものと思われます。

 大規模な土石流が集落の西側中心に襲って、多くの家屋を損壊させ、多くの住民が生き埋めになったり海へと押し流されて亡くなったものと思われます。

 吉永小百合さんのJR東日本の写真で有名になった「三角家」が、現在の羽茂大橋付近からここに移築されたのは、その弘化3年の水害後のことであるという。

 水害後の復興の様子をうかがわせる建物でもあったのです。

 そして4回目は明治中頃から「北前船」が衰退したこと。

 海上交通による大量運搬から鉄道による大量運搬の時代に入ったからです。

 宿根木を中世から支えてきた廻船業と「北前型」大型弁財船などを建造する造船業が2つとも大きな打撃を受けることになりました。

 これはこれまでの歴史の中で最も深刻な事態であったと考えられます。

 今まで集落を襲ってきた大きな試練を宿根木の人々は乗り越えてきました。

 しかし4回目の試練は、集落の人々の生活基盤を突き崩すものでした。

 駐車場のおじさんが説明してくれたように、小木半島の沖合は魚が獲れないところであり、宿根木はよい入り江を持つものの漁村として発展することはできませんでした。

 また集落を拡大するには土地は狭小であり、井戸もわずかしかありません。

 衣食住に関する生活物資はほとんどが船で運ばれてきたものでした。

 つまり外部から供給され購入するものでした。

 廻船業や造船業の衰退(明治半ば頃から)は、生活基盤を根こそぎ突き崩していくものであったはずです。

 年表などによると、宿根木の人々はその深刻な危機を、背後の台地上に田畑を広げていくことによって(つまり従来の商工業ではなく農業への移行で)乗り越えていくことになりました。

 小木民俗博物館の旧小学校の木造校舎を利用した資料館には、そのことを示す民俗資料が多数展示されていました。

 集落のタイムスリップしたような趣きのある路地を歩いてみると、そこには花鉢が飾ってあったり人々の日常生活が営まれていることがわかります。

 しかし駐車場で案内をしてくれた方にお聞きすると、実際に居住している人は以前に比べるとどんどん少なくなっているようです。

 駐車場に停めてある車は地元の人の車であり、そこが共有の駐車場になっているのですが、台数はそれほど多くありません。

 ほかの全国各地の農山漁村の状況と同じように、ここでも少子高齢化と若年層の流出という現象が見られることになり、実はこれがもっとも深刻な事態であると地元の方にも認識されているようです。

 「白山丸」の建造が、宿根木の歴史を振り返って地域の活性化を意図するものであったことは、展示されていた解説パネルから理解できました。

 しかし少子高齢化、若年層の流出、人口減少という事態は、ここ佐渡市小木町宿根木(国の伝統的建造物群保存区域指定地区)においても例外ではなく、地域活性化はなかなか難しいものであることを旅行者としてのわずかな滞在ながらも知ることができました。

                                            続く



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