鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

佐渡市小木町宿根木(しゅくねぎ)-その2

2019-01-14 16:52:47 | Weblog

 小木民俗博物館の宿根木の歴史に関する解説や、宿根木公会堂広場にあった「宿根木の歴史」の案内板などから、宿根木の歴史をまとめると、概略以下のようになります。

 鎌倉時代の北条宣時の下知状に「宿弥宜」という地名が出てくるのが弘安8年(1285年)のこと。

 その頃の佐渡の地頭の代表は「本間氏」でした。

 この宿根木には中世の頃より廻船業を営む者が移住してきており、南佐渡最大の湊として佐渡廻船の基地となり、宿根木浦は佐渡の富の3分の1を集めたと言われるほどの繁栄を見せました。

 しかし寛文12年(1672年)、河村瑞賢により西廻り航路が開かれて小木湊が寄港地として指定されると、佐渡の商業の中心地は小木湊へ移動することになります。

 その宿根木で北前型弁財船新造の時代が始まるのは安永年間頃(1772~1781)で江戸時代中期のこと。

 村には諸国から造船の職人や資材が集まり、宿根木は「千石船」を造る「技術者集団」の集落あるいは「千石船産業の基地」として整備され大いに繁栄していくことになりました。

 天明3年(1783年)、宿根木の廻船が、松前から、にしん・かずのこ・身欠・こんぶ等を買い求め、酒田・秋田・新潟・三国・敦賀・下関でそれらを売っている記録があります。

 享和2年(1802年)に小木地震があり海岸線が1m余隆起。

 文政7年(1824年)、宿根木の廻船持ち(船主)は11人を数えています。

 天保11年(1840年)、宿根木の廻船が佐渡奉行所の御城米を大坂へ運んだという記録が出てきます。

 弘化3年(1846年)、大洪水により死者45人、家屋が50軒損壊するという大きな被害を受けています。

 その宿根木の廻船業や造船業が衰えて来るのは明治25年(1892年)頃からで、やがて宿根木は田畑耕作や養蚕など農業への道を歩んでいくことになります。

 以上の歴史を振り返ってみると、「技術者集団」の集落、あるいは「千石船産業の基地」であった宿根木は、「北前船」の盛衰と歩みをともにしたことになります。

 宿根木の「角〈かど〉」は寛政5年(1793年)に建てられた建築年が判明する最古の家屋建築。

 船大工職人の家である「金子屋」は弘化3年(1846年)以前の建築。

 「三角家〈さんかくや〉」は弘化3年の水害後に移築されたもの。

 称光寺の山門は享保2年(1717年)の棟札が残り、建物としては最も古いもの。

 集落の建物の多くは幕末から明治にかけて建築されたもので、その建築は居住していた船大工の技術が結集されたものであるとともに、造船の残材や派生材、廃船になった船の材木などを利用したものでもありました。

 平成3年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。

                                       続く

 



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