鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

日本民家園「旧広瀬家住宅」について その1

2009-06-09 06:13:17 | Weblog
 「上萩原」は塩山駅付近から大菩薩峠を越えて青梅(おうめ)方面へ向かう「青梅街道」の道筋にありました。

現在、国道411号線は大菩薩峠ではなく柳沢峠を越えて丹波山村(そして奥多摩、青梅へとつながる)に入りますが、かつての「青梅街道」は大菩薩峠を越えて小菅村に入り、奥多摩へと向かっていました。

 塩山駅付近から柳沢峠を抜ける道は、二筋あって、北側がいわゆる「国道411号線」で、南側にももう一本あり、この南側の道筋をやや右手に入ったところに「上萩原」がありました。私には、この南側の道筋が古くからの道であるように思われました。

 実は、「旧広瀬家住宅」旧所在地は、あの「旧清宮家住宅」のように番地が明記されておらず、「上萩原」としかわかりませんでした。ちなみに古江亮仁さんの『日本民家園物語』を見ても、「塩山市(現甲州市─鮎川註)の北郊、大菩薩峠の西北(これは間違い─鮎川)の山裾にあたる上萩原という山村にあったものである」とあって、旧所在地の詳しい所番地は記されていません。

 カタログ(『日本民家園収蔵品目録6 旧広瀬家住宅』)によれば、広瀬家のあったところは上萩原で、それは明治8年(1875年)までの村名で、この年、上萩原は「神金村」となり、その後、塩山町、塩山市を経て甲州市となったものの、現在も地名として生きているという。「神金」という旧村名も使われていますが、土地の人が「神金」という場合、柳沢峠から甲府盆地側にかけての、上萩原・上小田原・下小田原を指し、一之瀬高橋は除くことが多いようである、とあります。

 古江亮仁さん自身は、どうもこの上萩原というところには訪れていないように思われます。しかし、甲府盆地には訪れたことがあるようで、「屋根の中央を突き上げ、中二階にした切妻造りの農家」のことについて言及しています。

 「甲府盆地を列車で旅すると、車窓から眺められる風景の中で特徴的なもののひとつは、屋根の中央を突き上げ、中二階にした切妻造りの農家だ。このような突き上げ中二階はそれほど古くからあるものではなく、養蚕がこの地方で盛んになった幕末から、その飼育作業の場としての屋根裏に採光を図るため設けられるようになった。そして突き上げ中二階を設ける以前の屋根裏中二階は暗いものだったが、この屋根裏部分を中二階とすることも、この地方で一般に養蚕が行われるようになった十八世紀後半になってからのことで、十八世紀初期以前の家で創建当初から屋根裏を中二階として利用したものはまだなかった。広瀬家住宅の創建当初の形はこの三つの段階の最古のものなので、移築にあたっては当時の姿に復元されたが、解体前は突き上げ中二階を持つ家に改造されていたもので、屋根裏利用のために『いどこ』『ざしき』部分にも前面に低い根太天井が張ってあった。」

 いずれにしろ、「この広瀬家住宅は、現存する甲州型切妻民家としては最も古い形を残すものの一つとして貴重で、その創建年代は諸種の点から見て十七世紀末に入り、それを下るものではないと推定されている。そして単に古い民家というだけでなく、甲州盆地の民家の発展を考えていくうえで重要な資料を提供する、価値の高いものといえよう」と古江さんは記されています。

 「上萩原」のどこかわからないため、「上萩原」に入ってから何人かの土地の人に伺って、その場所を絞り、車を停めたところの右手、石垣の上に建つ家の方に、「川崎の日本民家園に移築された茅葺き屋根の古民家が、このあたりにあったはずですが」とお聞きすると、道を隔てた向かい側の家が「旧広瀬家住宅」のあった広瀬さんのお宅でした。


 続く


○参考文献
・『日本文学全集 幸田露伴 樋口一葉』(集英社)「作家と作品 幸田露伴 樋口一葉」(塩田良平)
・『日本民家園収蔵品目録6 旧広瀬家住宅』(川崎市立日本民家園)
・『日本民家園物語』古江亮仁(多摩川新聞社)


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