
嘉永五年(1852年)六月、万次郎・伝蔵・五右衛門の三名が、彼らを引き取りに来た徒士目付(かちめつけ)役堀部太四郎ら十七名とともに長崎を出立し、土佐と伊予の国境を越えて七月に高知城下に到着したことは、「幕末土佐の英学とジョン・万次郎-その1」で述べました。
万次郎ら三人は、堺町の旅宿松尾屋三作方に収容され、その後、御船方(おふなかた)浦戸役所で徒士目付役吉田文治の取り調べを受け、特に万次郎については、中浦戸町に住む河田小龍(1824~1898)によって詳しく尋問され、やがて『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』(四巻本)が作成されます。
吉田文治や河田小龍に、万次郎に対する尋問を命じたのは、当時大目付であった吉田東洋。河田小龍は、京都狩野派の九代目である狩野永岳に学んだこともある絵師で、嘉永二年(1849年)には長崎に遊学して蘭学を学ぶとともに、木下逸雲(いつうん)という絵師に師事したこともあるという、当時の土佐藩においては抜きん出た新知識と実力をもつ絵師であったようです。
万次郎の体験が尋常ならざるものであることを知った小龍は、吉田東洋の許可を得て、万次郎を中浦戸町の自宅(「墨雲洞〔ぼくうんどう〕」)に引き取り、万次郎に対して読み書きを教える一方、万次郎から英語を学びます。
それを通して、小龍は、世界を股にかけたアメリカの捕鯨業のこと、万次郎が捕鯨船で立ち寄った世界各地の風俗のこと、万次郎が教育を受けたアメリカの政治や社会のことなどについて理解を深め、「いたずらにこれを聞き捨てても惜(おし)ければ、筆に任(まか)せ其(そ)の百一を抄録し、終(つい)にこの小冊子(『漂巷紀畧』)を作」ることになりました。
『漂巽紀畧』が完成したのは、嘉永五年(1852年)の十二月。小龍がまとめたこの『漂巽紀畧』は時の藩主(十五代)山内豊信(とよしげ・容堂・1827~1872)に献上されることになりました。
この十二月、万次郎は土佐藩に新規定小物(さだめこもの)として召し抱えられ、苗字帯刀(みょうじたいとう)を許されます。すなわち、庶民(漁師)から武士の身分になったわけで、これは当時においては、破格の人事であったと言っていいでしょう。
これにより、万次郎は山田町に家を与えられ、藩校教授(こうじゅ)館において英語や海外事情について教授することになりました。
「万次郎が山田町に家を与えられた」との記述は、『ジョン万次郎のすべて』の「万次郎帰国の謎」(田中瀧治)P196や、『龍馬を創った男 河田小龍』(桑原恭子)P56にありますが、どの資料にもとづくのかは今のところ私には不明です。
この「山田町」というのは、中江兆民(1847~1901)が生まれ育った町であり、「下横目(しもよこめ)」という職(下級の警察官・藩の牢屋や番所などに勤める)にあった足軽級の下級武士が居住していたところ。その長屋がある一帯は「部屋町」とも言われていました。
また、この山田町には、下級武士などを投獄する藩の牢屋があり、そのために山田町は「牢の町」とも言われていました。
中江兆民は、その山田町の長屋に住む、下横目役の元助・柳(りゅう)の長男として、弘化四年(1847年)に生まれています。
万次郎が山田町に家を与えられたということであれば、当然、「下横目役」の足軽が住む長屋に入ったということになりますが、なぜ「山田町」だったかは判然としません。
しかし、兆民(篤助)が五歳の時に、同じ町に万次郎が住んでいたということになり、なかなか捨てがたい話なので、私の小説『波濤の果て 中江兆民の青春』では、「万次郎は、山田町の牢内に住まいを与えられた(厳重な監視のもとに)」という脚色をほどこしています。
当時、この『漂巽紀畧』に目を通したであろう人々には、どういう人が考えられるでしょうか。
具体名を挙げてみると、
まず藩主山内豊信(容堂)。
それに大目付吉田東洋(1816~1862)。
小龍の門人である近藤長次郎(1838~1866)・新宮馬之助(1838~1887)・今井純正(1834~1872)・岡崎参三郎ら。
東洋の門下生である後藤象二郎(1838~1897)・岩崎弥太郎(1834~1885)・細川潤次郎(1834~1923)ら。
山内豊信と親しい付き合いを持つ雄藩大名(福井藩主の松平慶永〔1828~1890〕・宇和島藩主の伊達宗城〔むねなり・1818~1892〕・薩摩藩主の島津斉彬〔なりあきら・1809~1858〕・水戸藩主の徳川斉昭〔1800~1860〕らか)。
ほかに、江川太郎左衛門(1801~1855)・川路聖謨(かわじとしあきら・1801~1868)・大槻磐渓(1801~1878)ら。
そして、坂本龍馬(1835~1867)・中江兆民ら。
小龍の門人である近藤・新宮・今井は、後に、坂本龍馬とともに亀山社中、そして海援隊のメンバーになります。
今井純正は、後の長岡謙吉。幼時から龍馬と親しく、海援隊の書記役として、龍馬の参謀(ブレーン)を勤めることになります。
兆民は、おそらく細川潤次郎を通して『漂巽紀畧』を知った(あるいは万次郎が持ち帰ったアメリカ情報の内容を知った)可能性が高いと思われます(根拠となる資料は残念ながらありませんが)。
さて、では『漂巽紀畧』に記されたアメリカ情報の内容とはどういうものか。
以下、まとめてみたいと思います。
①万次郎らを救助した捕鯨船「ジョン・ホーランド号」について
長さ三十間(約55メートル)、幅六間(約11メートル)。帆柱三本を立て、捕鯨用のボート八艘を備えている。縦横に張り巡らされた縄綱はまるで蜘蛛の巣みたいで、白い数十枚の帆がすべてこの縄綱に引っ張られ、海風をまんまんとはらんで広がる様子はまさに壮観である。この船は、アメリカ合衆国のニューベッドフォードの捕鯨船で、油を入れる樽六千個、牛や豚を数頭、雑穀、大砲二筒、剣付き銃三十挺を積載し、乗組員は三十四名である。日本東海より鯨を追って南洋に出、六ヶ月の間に鯨十五、六頭を捕獲した。
②鯨油の取り方について
尾を本船に繋(つな)ぎ、頭部を切って轆轤(ろくろ)に掛け、船の上に巻き入れ、乗組員の一人が船を飛び降りて皮に穴を開け、綱を通し、船の上より大きな包丁のようなもので皮と肉の間を切り剥ぎ、轆轤でその綱を巻いて、皮を船に引き入れる。肉は海に捨ててしまう。船の上に大きな鍋を設け、頭と皮と尾を細かく裁断して油を取るのだ。
③ハワイのオアフ島の港について
ヨーロッパやアメリカなどの船舶はここに錨を下ろし、天候を待つところとしている。首府はホノルルというところで、最近二、三年来、アメリカのカリフォルニアで金山が開けて以来、ますます船が入る港の要所として栄えている。カリフォルニアに往来する船は必ずこの港に寄港し、ゆえに、西洋や中国の諸国からやって来ていろいろの商品を売る店がどんどん増えている。
④ニューベッドフォードの動架橋について
ニューベッドフォードの港の入口は狭く、およそ一里ばかり。入口の中央に島がある。その島の両側にそれぞれ木造の橋が架けられている。右側の橋の中間に、板の長さ五十尺(約15メートル)ばかりが鉄のロープで繋がれていて、それぞれに滑車が設けられている。船が長いマストを立てて橋に近づくと、船員の一人が橋に上がって滑車で鉄のロープを巻き寄せると、中間の板が一方へ動き、船は通行することが出来る。鉄のロープを放せば、中間の板は元に戻り、橋はもとの状態になる。
⑤アメリカ人の風俗について
アメリカ合衆国は東西六千九百余里、南北四千百余里で三十余の州に分かれている。住人は体格が立派で膚が白く、髪は黒くて身長は五、六尺以上。生まれつき穏やかな性格で、人に対して愛情や憐れみを加え、義節あることを尊んで、何事にも刻苦勉励し、世界中、交易をしない土地はない。女性は美しく、黒髪を頂きで束(たば)ね、かんざしのようなものはつけない。性質が従順で節操が固く精神力がいたって強いことは、この国の女性の精神的な特性となっている。
⑥大統領について
フェアへブンより二百五十里ほど離れたところに「ニューヨーク州」「ニューヨーク」という都市があるが、ここは三十余州の中の政治の中心地で(ここは万次郎の誤認)、国民は才能があり学問のある人を選んで大統領としており、その在職期間は四年としている。しかしもし徳が高く抜群の実績を上げた大統領がいる場合はその職を退かせないこともある。全国の才能ある者たちは、この大統領に選ばれようと争うようにこのニューヨークに集まってくる。当今の大統領(十二代)はテーラという。刑罰の処断が厳正であると評判である。このように政治や法律がしっかりと行き届いているために、国民はみな、アメリカ合衆国の政治に付け加えるものは何もないと言っている。
⑦ボストン港の砲台について
ニューベッドフォードの隣の港であるボストンは、人口およそ十万ばかり。近辺の港の中でも第一の良港と言われている。碇泊している船舶の帆柱はまるで林のようで、中でも巨大な軍艦がおびただしく碇泊している。港外の海岸には数基の砲台がある。巨大な石で築かれており、四層あるいは五層で、その層ごとに大砲がずらりと並べてある。それはあたかも城塁のようで極めて厳重な備えとなっている。
⑧各地の港の領事館について
外国の諸国は世界を股に掛けて航海を行っていて、貿易を専らとしているから、万一の場合に備えて各地の港に小官庁(領事館)を設けている。
⑨蒸気船について
蒸気船は長さ四十余間(約70メートル)で帆を用いることはなく、中央に巨大な蒸気機関を設けて、その蒸気力で船の内外に取り付けた車輪を回して走るが、その速さはたとえようもない。
⑩蒸気機関車について
蒸気機関車は、三間(約5.5メートル)四面の鉄の箱に石炭を入れて水を沸騰させ、その蒸気を細い鉄の筒に通して噴き出させて、その力で動く。蒸気船の機関と同じであり、鉄の車輪が回転するのは、蒸気船と変わることはない。別に鉄製の車両を二十三、四両も繋いで走る。車両の左右には各々三つのガラス窓があり、そこから外を眺めると、景色は皆斜めに見えて長く眺めることが出来ないほどの速さだ。平坦なところを走り、数百里の長距離でも、レールを敷いて、走行の便としている。
以上ですが、このアメリカ事情は、この『漂巽紀畧』を読む者に大きな興奮(または衝撃)を与えたであろうことは想像に難くない。
しかも、アメリカ事情に加えて、万次郎が実際に立ち寄った、日本とは大いに異なる世界各地の風俗が紹介されているのです。
ここで疑問に思うのは、万次郎はなぜ危険を冒(おか)して日本に戻って来たか、ということ。まかり間違えば、処刑される可能性もあった(事実、万次郎は、琉球を離れて薩摩に向かう時、世話になった土地の人に、「もし以後何もたよりがなければ、殺されたと思ってください」と言っているほど)からです。
河田小龍は、『漂巽紀略』の巻の一の冒頭で、
「日本は、神皇(神武天皇)開基以来、仁政徳治(とくち)が行われ、百穀が豊かに実る、万国無比の素晴らしい国である。だから嵐に遭って外国に漂流した者も、旧を慕って帰国してくる。我が皇国の美が、このことからも察せられるではないか」
と記していますが、万次郎は、本当に「皇国の美」を慕って、あるいは故郷の母に会うがためだけに帰ってきたのでしょうか。
もしそうであるなら、琉球国に向かうボート「アドベンチャー(冒険)号」に、アメリカなどで手に入れたものを、わざわざ積載する必要があったでしょうか。
万次郎らが持ち帰ったもの。
その詳細は、『ジョン・マンと呼ばれた男』(宮永孝・集英社)のP160に載っています。
地図(世界地図を含む)七枚。コンパス一個。オクタント(八分儀)。外国評判記十冊。ピストル二挺。マッチ七箱。鉄砲一挺。
前にも触れた、洋書大小十四冊!(航海書・算術書・英々辞典・英語の文法書・歴史書・農家暦……、そして初代大統領ジョージ・ワシントンの伝記『ザ・ライフ・オブ・ジョージ・ワシントン』)。
ここには、自分の見聞(体験)を、日本の将来に役立てようとの万次郎の意思があります。
万次郎は、琉球でも、鹿児島でも、長崎でも、そして高知においても、尋問に対して、不自由な和語を操(あやつ)りながらも、饒舌(じょうぜつ)に語ったに違いありません。
高知中浦戸町の小龍の家(「墨雲洞」)における、小龍の聞き取りに、万次郎は積極的に応じたことでしょう。
おそらく万次郎は、『漂巽紀畧』に書かれているよりもずっと多くのことを、小龍に話したにちがいありません。
安政元年(1854年)八月、小龍は藩から命ぜられて、薩摩の反射炉を視察するために、鹿児島に向け高知を出立。
三ヶ月後の十一月四日(この日、安政の大地震が起こります)に戻って来た時、袋に入れてあった『漂巽紀畧』の草稿がなくなっていることに気付くわけですが、それは調べてみると、万次郎が勝手に持ち出したということが判明します。
万次郎は、自分が死を賭(と)して持ち帰った知識(日本の将来に役立つはずの知識)が詰まった『漂巽紀畧』が、小龍のもとに「死蔵」(と彼は考えた)されていることに不快といらだちの念をもっていたのかもしれない、と私は思っています。
万次郎の生涯を通してみて、思うことの一つは、アメリカで教育を受けて英語を母国語のように使用していた万次郎が、琉球を経て高知に戻り、その過程で日本語の読み書きを、どれだけの苦労と努力をして習得したことか、ということで、その取り組みの真摯さに、まず感動させられます。
嘉永六年(1853年)のペリー艦隊の浦賀来航(江戸湾侵入)という未曾有(みぞう)の大事件の発生に、幕府は、アメリカ事情を実地に知っている土佐の万次郎を召し出します。
八月三十日に、早駕籠で土佐藩邸に到着した万次郎は、藩邸内できわめて厳重に警護され、他との接触を厳しく制限されるとともに、老中首座阿部正弘(1819~1857)らに呼び出され、詳しく尋問を受けることになります。
万次郎は、阿部に面会した際、臆することなく、
「アメリカの国の者に対する応対や通弁など、どのように込み入ったことであっても対応することが出来ます」
と述べています。
大した自信ですが、その裏には、嘉永四年一月三日に、琉球に上陸してから二年七ヶ月の間の、言語を絶する日本語の習得、日本の伝統社会(特に武家社会)に適応するための努力があったはずです。
その万次郎の取り組み、またそれ以後の彼のさまざまな取り組みを支えたものは、自分の見聞(体験)したことが、日本の将来に必ず役立つはずだ、との確信にあったと思います。
その万次郎の熱く強い意思が、河田小龍を、そして河田を通して坂本龍馬を、さらに細川潤次郎を通して中江兆民(篤助)を触発させた、と私は考えています。
ということで、今回も、またまたかなり長々とした話になってしまいました。
中浜万次郎についての、現在の私の一少考に過ぎませんが、いくらかでも読まれた方の参考になれば幸いです。
◇ 主な参考文献
『漂巽紀畧』 川田維鶴撰(高知市民図書館)
『ジョン万次郎のすべて』 永国淳哉編(新人物往来社)
『ジョン・マンと呼ばれた男』宮永孝(集英社)
『龍馬を創った男 河田小龍』桑原恭子(新人物往来社)
万次郎ら三人は、堺町の旅宿松尾屋三作方に収容され、その後、御船方(おふなかた)浦戸役所で徒士目付役吉田文治の取り調べを受け、特に万次郎については、中浦戸町に住む河田小龍(1824~1898)によって詳しく尋問され、やがて『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』(四巻本)が作成されます。
吉田文治や河田小龍に、万次郎に対する尋問を命じたのは、当時大目付であった吉田東洋。河田小龍は、京都狩野派の九代目である狩野永岳に学んだこともある絵師で、嘉永二年(1849年)には長崎に遊学して蘭学を学ぶとともに、木下逸雲(いつうん)という絵師に師事したこともあるという、当時の土佐藩においては抜きん出た新知識と実力をもつ絵師であったようです。
万次郎の体験が尋常ならざるものであることを知った小龍は、吉田東洋の許可を得て、万次郎を中浦戸町の自宅(「墨雲洞〔ぼくうんどう〕」)に引き取り、万次郎に対して読み書きを教える一方、万次郎から英語を学びます。
それを通して、小龍は、世界を股にかけたアメリカの捕鯨業のこと、万次郎が捕鯨船で立ち寄った世界各地の風俗のこと、万次郎が教育を受けたアメリカの政治や社会のことなどについて理解を深め、「いたずらにこれを聞き捨てても惜(おし)ければ、筆に任(まか)せ其(そ)の百一を抄録し、終(つい)にこの小冊子(『漂巷紀畧』)を作」ることになりました。
『漂巽紀畧』が完成したのは、嘉永五年(1852年)の十二月。小龍がまとめたこの『漂巽紀畧』は時の藩主(十五代)山内豊信(とよしげ・容堂・1827~1872)に献上されることになりました。
この十二月、万次郎は土佐藩に新規定小物(さだめこもの)として召し抱えられ、苗字帯刀(みょうじたいとう)を許されます。すなわち、庶民(漁師)から武士の身分になったわけで、これは当時においては、破格の人事であったと言っていいでしょう。
これにより、万次郎は山田町に家を与えられ、藩校教授(こうじゅ)館において英語や海外事情について教授することになりました。
「万次郎が山田町に家を与えられた」との記述は、『ジョン万次郎のすべて』の「万次郎帰国の謎」(田中瀧治)P196や、『龍馬を創った男 河田小龍』(桑原恭子)P56にありますが、どの資料にもとづくのかは今のところ私には不明です。
この「山田町」というのは、中江兆民(1847~1901)が生まれ育った町であり、「下横目(しもよこめ)」という職(下級の警察官・藩の牢屋や番所などに勤める)にあった足軽級の下級武士が居住していたところ。その長屋がある一帯は「部屋町」とも言われていました。
また、この山田町には、下級武士などを投獄する藩の牢屋があり、そのために山田町は「牢の町」とも言われていました。
中江兆民は、その山田町の長屋に住む、下横目役の元助・柳(りゅう)の長男として、弘化四年(1847年)に生まれています。
万次郎が山田町に家を与えられたということであれば、当然、「下横目役」の足軽が住む長屋に入ったということになりますが、なぜ「山田町」だったかは判然としません。
しかし、兆民(篤助)が五歳の時に、同じ町に万次郎が住んでいたということになり、なかなか捨てがたい話なので、私の小説『波濤の果て 中江兆民の青春』では、「万次郎は、山田町の牢内に住まいを与えられた(厳重な監視のもとに)」という脚色をほどこしています。
当時、この『漂巽紀畧』に目を通したであろう人々には、どういう人が考えられるでしょうか。
具体名を挙げてみると、
まず藩主山内豊信(容堂)。
それに大目付吉田東洋(1816~1862)。
小龍の門人である近藤長次郎(1838~1866)・新宮馬之助(1838~1887)・今井純正(1834~1872)・岡崎参三郎ら。
東洋の門下生である後藤象二郎(1838~1897)・岩崎弥太郎(1834~1885)・細川潤次郎(1834~1923)ら。
山内豊信と親しい付き合いを持つ雄藩大名(福井藩主の松平慶永〔1828~1890〕・宇和島藩主の伊達宗城〔むねなり・1818~1892〕・薩摩藩主の島津斉彬〔なりあきら・1809~1858〕・水戸藩主の徳川斉昭〔1800~1860〕らか)。
ほかに、江川太郎左衛門(1801~1855)・川路聖謨(かわじとしあきら・1801~1868)・大槻磐渓(1801~1878)ら。
そして、坂本龍馬(1835~1867)・中江兆民ら。
小龍の門人である近藤・新宮・今井は、後に、坂本龍馬とともに亀山社中、そして海援隊のメンバーになります。
今井純正は、後の長岡謙吉。幼時から龍馬と親しく、海援隊の書記役として、龍馬の参謀(ブレーン)を勤めることになります。
兆民は、おそらく細川潤次郎を通して『漂巽紀畧』を知った(あるいは万次郎が持ち帰ったアメリカ情報の内容を知った)可能性が高いと思われます(根拠となる資料は残念ながらありませんが)。
さて、では『漂巽紀畧』に記されたアメリカ情報の内容とはどういうものか。
以下、まとめてみたいと思います。
①万次郎らを救助した捕鯨船「ジョン・ホーランド号」について
長さ三十間(約55メートル)、幅六間(約11メートル)。帆柱三本を立て、捕鯨用のボート八艘を備えている。縦横に張り巡らされた縄綱はまるで蜘蛛の巣みたいで、白い数十枚の帆がすべてこの縄綱に引っ張られ、海風をまんまんとはらんで広がる様子はまさに壮観である。この船は、アメリカ合衆国のニューベッドフォードの捕鯨船で、油を入れる樽六千個、牛や豚を数頭、雑穀、大砲二筒、剣付き銃三十挺を積載し、乗組員は三十四名である。日本東海より鯨を追って南洋に出、六ヶ月の間に鯨十五、六頭を捕獲した。
②鯨油の取り方について
尾を本船に繋(つな)ぎ、頭部を切って轆轤(ろくろ)に掛け、船の上に巻き入れ、乗組員の一人が船を飛び降りて皮に穴を開け、綱を通し、船の上より大きな包丁のようなもので皮と肉の間を切り剥ぎ、轆轤でその綱を巻いて、皮を船に引き入れる。肉は海に捨ててしまう。船の上に大きな鍋を設け、頭と皮と尾を細かく裁断して油を取るのだ。
③ハワイのオアフ島の港について
ヨーロッパやアメリカなどの船舶はここに錨を下ろし、天候を待つところとしている。首府はホノルルというところで、最近二、三年来、アメリカのカリフォルニアで金山が開けて以来、ますます船が入る港の要所として栄えている。カリフォルニアに往来する船は必ずこの港に寄港し、ゆえに、西洋や中国の諸国からやって来ていろいろの商品を売る店がどんどん増えている。
④ニューベッドフォードの動架橋について
ニューベッドフォードの港の入口は狭く、およそ一里ばかり。入口の中央に島がある。その島の両側にそれぞれ木造の橋が架けられている。右側の橋の中間に、板の長さ五十尺(約15メートル)ばかりが鉄のロープで繋がれていて、それぞれに滑車が設けられている。船が長いマストを立てて橋に近づくと、船員の一人が橋に上がって滑車で鉄のロープを巻き寄せると、中間の板が一方へ動き、船は通行することが出来る。鉄のロープを放せば、中間の板は元に戻り、橋はもとの状態になる。
⑤アメリカ人の風俗について
アメリカ合衆国は東西六千九百余里、南北四千百余里で三十余の州に分かれている。住人は体格が立派で膚が白く、髪は黒くて身長は五、六尺以上。生まれつき穏やかな性格で、人に対して愛情や憐れみを加え、義節あることを尊んで、何事にも刻苦勉励し、世界中、交易をしない土地はない。女性は美しく、黒髪を頂きで束(たば)ね、かんざしのようなものはつけない。性質が従順で節操が固く精神力がいたって強いことは、この国の女性の精神的な特性となっている。
⑥大統領について
フェアへブンより二百五十里ほど離れたところに「ニューヨーク州」「ニューヨーク」という都市があるが、ここは三十余州の中の政治の中心地で(ここは万次郎の誤認)、国民は才能があり学問のある人を選んで大統領としており、その在職期間は四年としている。しかしもし徳が高く抜群の実績を上げた大統領がいる場合はその職を退かせないこともある。全国の才能ある者たちは、この大統領に選ばれようと争うようにこのニューヨークに集まってくる。当今の大統領(十二代)はテーラという。刑罰の処断が厳正であると評判である。このように政治や法律がしっかりと行き届いているために、国民はみな、アメリカ合衆国の政治に付け加えるものは何もないと言っている。
⑦ボストン港の砲台について
ニューベッドフォードの隣の港であるボストンは、人口およそ十万ばかり。近辺の港の中でも第一の良港と言われている。碇泊している船舶の帆柱はまるで林のようで、中でも巨大な軍艦がおびただしく碇泊している。港外の海岸には数基の砲台がある。巨大な石で築かれており、四層あるいは五層で、その層ごとに大砲がずらりと並べてある。それはあたかも城塁のようで極めて厳重な備えとなっている。
⑧各地の港の領事館について
外国の諸国は世界を股に掛けて航海を行っていて、貿易を専らとしているから、万一の場合に備えて各地の港に小官庁(領事館)を設けている。
⑨蒸気船について
蒸気船は長さ四十余間(約70メートル)で帆を用いることはなく、中央に巨大な蒸気機関を設けて、その蒸気力で船の内外に取り付けた車輪を回して走るが、その速さはたとえようもない。
⑩蒸気機関車について
蒸気機関車は、三間(約5.5メートル)四面の鉄の箱に石炭を入れて水を沸騰させ、その蒸気を細い鉄の筒に通して噴き出させて、その力で動く。蒸気船の機関と同じであり、鉄の車輪が回転するのは、蒸気船と変わることはない。別に鉄製の車両を二十三、四両も繋いで走る。車両の左右には各々三つのガラス窓があり、そこから外を眺めると、景色は皆斜めに見えて長く眺めることが出来ないほどの速さだ。平坦なところを走り、数百里の長距離でも、レールを敷いて、走行の便としている。
以上ですが、このアメリカ事情は、この『漂巽紀畧』を読む者に大きな興奮(または衝撃)を与えたであろうことは想像に難くない。
しかも、アメリカ事情に加えて、万次郎が実際に立ち寄った、日本とは大いに異なる世界各地の風俗が紹介されているのです。
ここで疑問に思うのは、万次郎はなぜ危険を冒(おか)して日本に戻って来たか、ということ。まかり間違えば、処刑される可能性もあった(事実、万次郎は、琉球を離れて薩摩に向かう時、世話になった土地の人に、「もし以後何もたよりがなければ、殺されたと思ってください」と言っているほど)からです。
河田小龍は、『漂巽紀略』の巻の一の冒頭で、
「日本は、神皇(神武天皇)開基以来、仁政徳治(とくち)が行われ、百穀が豊かに実る、万国無比の素晴らしい国である。だから嵐に遭って外国に漂流した者も、旧を慕って帰国してくる。我が皇国の美が、このことからも察せられるではないか」
と記していますが、万次郎は、本当に「皇国の美」を慕って、あるいは故郷の母に会うがためだけに帰ってきたのでしょうか。
もしそうであるなら、琉球国に向かうボート「アドベンチャー(冒険)号」に、アメリカなどで手に入れたものを、わざわざ積載する必要があったでしょうか。
万次郎らが持ち帰ったもの。
その詳細は、『ジョン・マンと呼ばれた男』(宮永孝・集英社)のP160に載っています。
地図(世界地図を含む)七枚。コンパス一個。オクタント(八分儀)。外国評判記十冊。ピストル二挺。マッチ七箱。鉄砲一挺。
前にも触れた、洋書大小十四冊!(航海書・算術書・英々辞典・英語の文法書・歴史書・農家暦……、そして初代大統領ジョージ・ワシントンの伝記『ザ・ライフ・オブ・ジョージ・ワシントン』)。
ここには、自分の見聞(体験)を、日本の将来に役立てようとの万次郎の意思があります。
万次郎は、琉球でも、鹿児島でも、長崎でも、そして高知においても、尋問に対して、不自由な和語を操(あやつ)りながらも、饒舌(じょうぜつ)に語ったに違いありません。
高知中浦戸町の小龍の家(「墨雲洞」)における、小龍の聞き取りに、万次郎は積極的に応じたことでしょう。
おそらく万次郎は、『漂巽紀畧』に書かれているよりもずっと多くのことを、小龍に話したにちがいありません。
安政元年(1854年)八月、小龍は藩から命ぜられて、薩摩の反射炉を視察するために、鹿児島に向け高知を出立。
三ヶ月後の十一月四日(この日、安政の大地震が起こります)に戻って来た時、袋に入れてあった『漂巽紀畧』の草稿がなくなっていることに気付くわけですが、それは調べてみると、万次郎が勝手に持ち出したということが判明します。
万次郎は、自分が死を賭(と)して持ち帰った知識(日本の将来に役立つはずの知識)が詰まった『漂巽紀畧』が、小龍のもとに「死蔵」(と彼は考えた)されていることに不快といらだちの念をもっていたのかもしれない、と私は思っています。
万次郎の生涯を通してみて、思うことの一つは、アメリカで教育を受けて英語を母国語のように使用していた万次郎が、琉球を経て高知に戻り、その過程で日本語の読み書きを、どれだけの苦労と努力をして習得したことか、ということで、その取り組みの真摯さに、まず感動させられます。
嘉永六年(1853年)のペリー艦隊の浦賀来航(江戸湾侵入)という未曾有(みぞう)の大事件の発生に、幕府は、アメリカ事情を実地に知っている土佐の万次郎を召し出します。
八月三十日に、早駕籠で土佐藩邸に到着した万次郎は、藩邸内できわめて厳重に警護され、他との接触を厳しく制限されるとともに、老中首座阿部正弘(1819~1857)らに呼び出され、詳しく尋問を受けることになります。
万次郎は、阿部に面会した際、臆することなく、
「アメリカの国の者に対する応対や通弁など、どのように込み入ったことであっても対応することが出来ます」
と述べています。
大した自信ですが、その裏には、嘉永四年一月三日に、琉球に上陸してから二年七ヶ月の間の、言語を絶する日本語の習得、日本の伝統社会(特に武家社会)に適応するための努力があったはずです。
その万次郎の取り組み、またそれ以後の彼のさまざまな取り組みを支えたものは、自分の見聞(体験)したことが、日本の将来に必ず役立つはずだ、との確信にあったと思います。
その万次郎の熱く強い意思が、河田小龍を、そして河田を通して坂本龍馬を、さらに細川潤次郎を通して中江兆民(篤助)を触発させた、と私は考えています。
ということで、今回も、またまたかなり長々とした話になってしまいました。
中浜万次郎についての、現在の私の一少考に過ぎませんが、いくらかでも読まれた方の参考になれば幸いです。
◇ 主な参考文献
『漂巽紀畧』 川田維鶴撰(高知市民図書館)
『ジョン万次郎のすべて』 永国淳哉編(新人物往来社)
『ジョン・マンと呼ばれた男』宮永孝(集英社)
『龍馬を創った男 河田小龍』桑原恭子(新人物往来社)
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