鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その7」

2008-01-08 05:49:24 | Weblog
 「ハミングロード513」(本町商店街)は、クリスマスらしいきれいな電飾を施した円柱の上に灯りがともって周囲を明るく照らしており、広めの整備された歩道にはベンチがあり、そのベンチの両脇の足となっている石には彫刻が施されています。また歩道のところどころに彫刻や、季節の花を生けたフラワーボックスが設けられています。

 左手に「本町駐車場」があり、車でやって来た買物客はここに車を停めることが出来るるようになっている。右手に「AEON JUSCO」という大型スーパーマーケットがあり、本町商店街はその大型店舗と共存しています。

 右手歩道に、「江戸(水戸)街道宿場跡」のガイド・パネルがありました。それによると、「江戸街道(水戸街道)」はおよそ30里(約120km)の道程に21の宿場が整備されており、水戸の宿場(水戸宿)はこの辺り(本町商店街=「ハミングロード513」を主とする通り)が中心でした。諸大名をはじめ旅人の往来が多く、当時水戸城下の下町(しもまち)でもっとも賑やかな繁華街であった、という。

 ここは水戸の宿場町の中心街であったのです。

 左手に、白いバッグを置いたスカート姿のかわいらしい女の子の像がある。

 その少し先の左手に、「ハミングロード513 本町商店街案内図」がありました。

 歩道を、買物帰りと思われる年配の女性が歩いておられたので、声を掛けました。

 「この辺りはいつ頃からこのような通りになったんですか」

 「今から15年から20年前近くかしら。はっきりは思い出せないけどね」

 「かなり古い商店街なんでしょう?」

 「昔からの商店街で、昔は上市(うわいち)よりもこちらの方が賑わっていたんですよ。この辺りは下市(しもいち)と言ったんです。今は駅の北の方が賑やかだけど、昔は大きな呉服屋さんなどいろいろなお店があってね、みんなここへ買いに来たものよ」

 「空襲は受けたんですか」

 「この辺りも空襲を受けましたよ」

 「全部焼けたんですか」

 「全部焼けました」

 「いい通りですよね」

 「家賃や地代を払わなくてもいいから、それなりにお客さんもいるし、続けられているんじゃないかしら」

 通りの突き当たりを左折した辺りで、「家はここなんですよ」ということで、その70前後と思われる女性と別れました。

 左折した通りを進むと、すぐに「備前堀」に架かる「銷魂橋(たまげばし)」に出る。

 ここにも案内がありました。この橋は城下の出入り口にあり、はじめ七軒町橋と言われて、たもとの広場に高札(こうさつ)が立てられていました。水戸を去る人々が、この橋で別れを惜しんだため、2代藩主光圀が元禄3年(1690年)、名を「銷魂橋」と改め水茶屋などを置いたという。

 また「笠原水道」(上水道)が設けられ、この備前堀を橋と並行して銅樋で渡したのだとも。

 ※この「笠原水道」とは、光圀の時代に、低湿地で飲料水に恵まれない下市(しもいち)の住民のために開設されたもの。千波湖の南方にある笠原の水源地から、岩樋を道路に埋め込んだり、木樋で川や谷を越して約12キロを引水、市街地で順次分水し、各町に溜め桝(ためます)を設置して水を日常利用できるようにしたもの。(『茨城県の歴史』による)

 橋の真ん中に立って、堀の下流を眺めて見ると、堀の両側の歩道に等間隔(やや距離を置いている)で淡い朱色の灯りが並んでいます。四角い石灯籠は現代的なデザインなのですが、夕闇の中ではまるで行灯(あんどん)のように風情がある。その淡い朱色の灯りが冬の冷たそうな黒い川面に、やはり等間隔に点々と映っています。

 堀の右手(下流に向かって)は「備前堀通り」。

 橋を渡って左手に「備前堀周辺案内板」がありました。

 「ハミングロード513」や「備前堀」の整備は、古い歴史を持つ由緒ある商店街の、活性化にむけての試みの一つの具体例であると思いました。

 ところで「ハミングロード513」の「513」とは何か。これは前日よりずっと疑問に思っていたのですが、調べてみると、通りの長さが「513m」であるところから来ているとのことでした。

 「備前堀通り」の右手は紺屋町。

 堀に架かる橋は、「道明(どうめい)橋」の次は「三又(みつまた)橋」。それを過ぎると堀の左側は家となり、灯りが点るのは右側だけになる。

 「コウシュウ設計」の少し先に最後の石灯籠の灯りがあり、その手前で、堀に架かる細い橋を渡って路地を出ると、なんとそこは「山城屋旅館」の駐車場でした。

 出た通りを左折して少し戻ると、右手に「山城屋」の看板があり、右手が本館で左手が新館。私が泊まっているところは、その本館。

 中に入って若い女将(おかみ)さんと少しく会話。

 「山城屋旅館」は、戦前からここで開業しているとのこと。今は一括して「本町」というけれど、昔は、「青物町」「肴(さかな)町」「紺屋町」「博労(ばくろう)町」などといった町名があったという。小田原などもそうですが、おそらく「効率化」という行政側の都合によって、歴史のある地名は歴史がわずかしか見えない地名になってしまいました。

 この「本町」辺りは、たしかにかつての繁栄は失われてしまったかも知れませんが、それがゆえに、空襲を受けて昔の家はなくなってしまったけれど、昔の風情はきちんと残っているわけで、それが町としての魅力ではないかと思われます。これからはその魅力を生かしていく時代ではないか。

 水戸に来た観光客は、偕楽園や弘道館に行っても、駅から歩いて30分以上もあるここまで足を運ぶ人は少ないでしょう。

 しかし、しっかり宣伝をし、またその町の歴史や文化を学ぶことが出来る、その町の魅力を生かした、大袈裟でなくてもいい小さな博物館などのようなものがあれば(たとえば小田原の「街かど博物館」のような試み)、首都圏から水戸にやって来た観光客を呼び込める可能性もあるように思われます。

 また地域商店街の活性化に向けた試みは、行政の支援も必須。考えるのは地元の人たち。それを支援し(財政的にも)アドバイスをしていくのが行政の仕事だと思います。

 
 備前堀両岸の枝垂れ柳(しだれやなぎ)の葉が、そよ風に揺れる頃に、またここを歩いてみたい。


 続く


○参考文献
・『茨城の史跡は語る』茨城地方史研究会(茨城新聞社)
・『茨城県の歴史』(山川出版社)


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