
厚木宿天王町の旅籠「万年屋」で一夜を明かした崋山は、翌日の9月24日(陰暦)、酒井村の駿河屋彦八という者の訪問を受けます。
この酒井村というのは、厚木宿から南に一里(約4km)ほど離れたところにある村。
人々はこの駿河屋彦八を「厚木の侠客」であるとしています。
性格は素朴で、まるで子供のよう。
しかし不義を憎むという点では、自分がたとえ死ぬに至るとしてもその不義を追求することを止めないという剛毅な男。
才芸ある者はみんな彦八のところへ行って面倒を見てもらっている。
もし相手の話しぶりにおごりが見られた時には、面と向かって叱責するばかりか、大いに罵倒するために、面会に行った者は卒倒してしまうほど。
酒井村はもとある家の領地であったが、その領主に不正があったため、彦八はついに訴訟へと持ち込み、彦八の言い分に理があったために領地替えが命ぜられて、酒井村は天領(幕府領)となり、それによって彦八は酒井村の村長になったという。
里人(さとびと)はみな彦八に敬服しており、彦八が通れば人々はみなひれ伏すほどである。
彦八が言うことに対しては、みな信頼してその言に従い、村の中で何か事件が起きた時にはその決済については彦八に仰ぐようにしているほどである。
この9月24日、実は厚木村の名主である中野屋新兵衛(「米屋」を営んでおり「米新」が屋号)も崋山のもとを訪れており、崋山が座を外した時に、みんなが「初めて彦八に会った者で面罵されなかった者はただあの方(崋山のこと)だけだ」と言っていたということを、その新兵衛から崋山は聞いたらしい。
崋山は、訪れた彦八に対して、「厚木が大変豊かであることは言うまでもないところだが、あなたには何か不足に思うようなことはありませんか」と聞いています。
この問いについて、崋山は、自ら次のようにコメントを付しています。
「私の問いは、政(まつりごと)の可否を知り、また処置の当否を問おうとしたものだ」
この場合の「政(まつりごと)」や「処置」というのは、もちろんこの厚木村などを支配している烏山藩のことを指していると言っていい。
厚木村やその周辺の村々などを、分領として支配している烏山藩の政治に対する意見を、崋山は不正を憎むことにおいては人後に落ちない剛毅な性格の彦八に求めたのです。
もしかしたら、その場には、厚木村の名主である中野屋新兵衛や医者の唐沢蘭斎、そして斎藤鐘助などもいたのかも知れない。
崋山という人物を信頼して、唐沢蘭斎も、そして駿河屋彦八も、過酷な政治を行う烏山藩の政治に対する不満や率直な批判を赤裸々に述べています。
崋山が烏山藩政について地元の有力者に問いただしたのには、伏線がある。
それは、9月20日(陰暦)の夜に泊まった荏田宿の旅籠「升屋」において、半原村に住むという孫兵衛という男から、烏山藩の「苛政」について話を聞いたこと。
孫兵衛は、厚木村や半原村、田名村などは烏山藩の領地であり、その烏山藩は御用金を命じることがしばしばであり、厚木村に対しては2000両の御用金を課したこともあるということ、そのような苛政をやっているために、田名村というところでは村人が徒党を組んで江戸に門訴をしたことによって代官が腹を切ったこともあるといったことを崋山に話しています。
津久井郡を中心に起こった「土平治騒動(一揆)」についての話も孫兵衛は崋山にしているようですが、崋山は田名村の事件と混同して記録しています。
相模川を渡し船で渡って厚木宿に入った崋山は、その江戸と変わらぬ賑やかさや繁栄ぶり、やはり江戸と変わらぬ男女の風俗などにびっくりしていますが、その繁栄の裏に烏山藩政への領民の不満が鬱積しているらしいことを、半原村の孫兵衛の話から知っていました。
大久保佐渡守常春が烏山藩への転封の命を受けたのは享保10年(1725年)10月のこと。
そして翌享保11年(1726年)3月に正式に烏山城を引き渡されて、大久保藩政が発足しました。
享保13年(1728年)、常春は、老中就任と同時に相模四郡のうち39ヶ村1万石を加増され、烏山藩は今までの2万石から3万石の藩となりました。
そのうち愛甲郡10ヶ村の中に、厚木村や半原村などが属し、高座郡13ヶ村の中に田名村などが属していたのです。
烏山藩は、天明の大飢饉以後、農村の荒廃や人心の廃退が進み、藩財政の窮乏も深刻化していきました。
『烏山町史』によれば、藩財政を支える力は相州1万石の飛び地領であり、「烏山藩領全収納の半分は相州領の収納と見ることができる」ほどでした。
「江戸藩邸の経費の三分のニは相州領で賄われていた」という記述もあり、烏山藩の財政はその多くを相州領に拠っていたということができます。
『烏山町史』によれば、烏山藩が厚木村の有力商人15名に2000両の御用金を命じたのは文政5年(1822年)のこと。
これが、半原村の孫兵衛が崋山に語ったことでした。
当時の藩主は5代大久保忠成でした。
文政10年(1827年)、その忠成は隠居を仰せ付けられ、佐渡守忠保が家督を引き継ぎました。
やはり半原村の孫兵衛が崋山に語った、田名村の農民が大挙して江戸に向かい門訴をするという事件が起こったのは文政7年(1824年)12月のことであり、藩主はやはり5代忠成の時でした。
しかし藩主が替わっても、烏山藩は次々と多額の御用金の調達を相州領の村々に命じており、その「苛政」に対する領民の不満は、崋山が厚木宿を訪れた時も相当に鬱積していたことが、崋山が聞いた駿河屋彦八や唐沢蘭斎などの話から伺うことができるのです。
崋山が属する田原藩はわずか1万2千石の小藩。
厚木などを支配する烏山藩も、3万石とはいえ小藩であることには変わりはありません。
領民たちがどのような政治のやり方に対して不満を持ち、そしてその不満はどのような藩政への批判を生み出しているのか、領民たちはどのような対応や対策を考えているのか、といったことは、藩政に対して治者の一人として人一倍の自覚と責任感を持つ崋山としては、ぜひ知りたいと思っていたことがらであったでしょう。
崋山の人となりを信頼した駿河屋彦八は、崋山の問いに対して、おもむろに、しかしやがて滔々と藩政批判を展開しはじめたのです。
続く
〇参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・『大山道今昔』金子勤(神奈川新聞社)
・『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日新聞社)
・『厚木の商人』鈴村茂(神奈川情報社)
・『烏山町史』烏山町史編集委員会(烏山町)
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