本丸跡はかなり広く、周囲は土塁で囲まれています。
案内板によると、佐倉城は石垣のない土づくりの城であり、城の防御のために土手が造られており(これが土塁)、この土塁を巧みに配置して城の守りが固められているという。
しかもこの本丸の土塁の上には土塀が存在したとも。
「銅櫓跡」の案内板にも、明治初期に撮影された銅櫓(どうやぐら)の写真が掲載されていますが、銅瓦葺であったというその屋根の頂き部分は木組みが見えており、そこに何人かの男たちが乗っています。
銅瓦の部分が剥がされ、櫓の一部解体が始まっているところを撮影したものであるようです。
案内板の説明によると、この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領したもので、江戸城吹上庭内より移築したものであるといい、もとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれているとのこと。
もしそうであるならば、太田道灌の造った江戸城の一部がここに移築されていたということになり、極めて貴重なものであったはずですが、これも現在は残されていません。
本丸の天守閣跡は、銅櫓跡や夫婦モッコク(千葉県指定天然記念物)に続く土塁上にありました。
土塁に囲まれて広場になっているところを、天守閣跡から見下ろす形になりますが、この広場に本丸御殿があったものと思われます。
「台所門跡(不明門)」は、その本丸御殿の台所に通ずる門であったでしょう。
この「天守閣跡」のある土塁上からは、葉を落とした樹木の間から川の流れが見えますが、この川が「鹿島川」。その鹿島川の周辺には田んぼが広がっており、その向こうに別の丘陵が左右に広がっています。
本丸跡の広場では、散策をしている人や遊んでいる子どもの姿が見られ、何の施設も設けられていないのが、いくつかの城跡を見てきた者としては、かえって好ましく感ぜられました。
その「本丸跡」を出て、「一の門跡」「二の門跡」を過ぎて「三の門跡」に来ると、この「三の門跡」の案内板にも、阿部忠忱(ただのぶ)が明治初期に撮影した「三の門(本瓦葺・二階造り)」の古写真が掲載されていました。手前の路上には日傘を差した男を含めた三人の若い男が写っており、また左端の門の前には子どもと思われる五人の男の子たちが写っています。
この門を潜った「三の丸」には、家老屋敷が置かれていたということであり、重臣たちの屋敷はこの「三の丸」にあったのでしょう。
「佐倉御城實測図」というものがありましたが、これは安政6年(1859年)の佐倉藩の実測図をもとに作られたもので、安政6年当時の佐倉城の様子がよくわかるもの。
現在の国立歴史民俗博物館があるあたりには、武家屋敷が並んでおり、田町御門から愛宕坂を上がってきたところには、たしかに愛宕神社と円正寺(正しくは円勝寺)の名前が記されています。またその北西部には「調練場」とあり、ここで洋式兵隊の訓練が行われたものと思われます。
案内板によると、徳川家康がこの要害に着目し、土井利勝に命じて慶長16年(1611年)から7年間を費やして完成させたという。以来徳川幕府では、江戸の守りとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じたとのこと。
延享3年(1746年)、山形から堀田氏が再び移封されて明治維新に及ぶものの、明治6年(1873年)、第一軍管第二師営の営所が置かれることになり、城の施設はことごとく壊されました。その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった、とのこと。
この案内板の説明から、佐倉城の諸施設がことごとく壊されたのは明治6年(1873年)、第一軍管第二師営が設置されることに伴うものであり、阿部忠忱の撮影した佐倉城の写真は、明治6年以前に撮影されたものであることがわかりました。
ここから佐倉中・佐倉東高(練兵場跡地)の間を通って、「大手門跡」を通過。ここの案内板にも阿部忠忱が明治5年(1872年)頃撮影した大手門の写真が掲載されていました。
この左側の写真には、大手門の下に15、6名ほどの子どもを含む男たちが写っており、これらはもと佐倉藩士およびその子弟であると思われます。
右側の写真にも、日傘を差した男たちを含む8人ほどが写っており、今までの写真全体から考えると、佐倉城の諸施設撤去(破壊)を前にして、そのありし日の姿を写真に残そうとした「記念写真」のようなものである(撮影者は阿部忠忱)と思われます。
「佐倉城大手門跡」と刻まれた石碑前を過ぎ、佐倉市民体育館や済生堂浜野病院跡などを右手に見て、麻賀多神社のところで「武家屋敷→550m」の案内標示に従って右折。
鏑木小路と呼ばれる武家屋敷通り(西村茂樹邸跡もここにある)を通って、時間の関係上、武家屋敷の観覧は断念して、突き当りの「ひよどり坂」の竹林の中を下って、JR成田駅に向かい、帰途に就きました。
終わり
○参考文献
・『風景の記録』(国立歴史民俗博物館)
・『江戸東京年表』(小学館)
案内板によると、佐倉城は石垣のない土づくりの城であり、城の防御のために土手が造られており(これが土塁)、この土塁を巧みに配置して城の守りが固められているという。
しかもこの本丸の土塁の上には土塀が存在したとも。
「銅櫓跡」の案内板にも、明治初期に撮影された銅櫓(どうやぐら)の写真が掲載されていますが、銅瓦葺であったというその屋根の頂き部分は木組みが見えており、そこに何人かの男たちが乗っています。
銅瓦の部分が剥がされ、櫓の一部解体が始まっているところを撮影したものであるようです。
案内板の説明によると、この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領したもので、江戸城吹上庭内より移築したものであるといい、もとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれているとのこと。
もしそうであるならば、太田道灌の造った江戸城の一部がここに移築されていたということになり、極めて貴重なものであったはずですが、これも現在は残されていません。
本丸の天守閣跡は、銅櫓跡や夫婦モッコク(千葉県指定天然記念物)に続く土塁上にありました。
土塁に囲まれて広場になっているところを、天守閣跡から見下ろす形になりますが、この広場に本丸御殿があったものと思われます。
「台所門跡(不明門)」は、その本丸御殿の台所に通ずる門であったでしょう。
この「天守閣跡」のある土塁上からは、葉を落とした樹木の間から川の流れが見えますが、この川が「鹿島川」。その鹿島川の周辺には田んぼが広がっており、その向こうに別の丘陵が左右に広がっています。
本丸跡の広場では、散策をしている人や遊んでいる子どもの姿が見られ、何の施設も設けられていないのが、いくつかの城跡を見てきた者としては、かえって好ましく感ぜられました。
その「本丸跡」を出て、「一の門跡」「二の門跡」を過ぎて「三の門跡」に来ると、この「三の門跡」の案内板にも、阿部忠忱(ただのぶ)が明治初期に撮影した「三の門(本瓦葺・二階造り)」の古写真が掲載されていました。手前の路上には日傘を差した男を含めた三人の若い男が写っており、また左端の門の前には子どもと思われる五人の男の子たちが写っています。
この門を潜った「三の丸」には、家老屋敷が置かれていたということであり、重臣たちの屋敷はこの「三の丸」にあったのでしょう。
「佐倉御城實測図」というものがありましたが、これは安政6年(1859年)の佐倉藩の実測図をもとに作られたもので、安政6年当時の佐倉城の様子がよくわかるもの。
現在の国立歴史民俗博物館があるあたりには、武家屋敷が並んでおり、田町御門から愛宕坂を上がってきたところには、たしかに愛宕神社と円正寺(正しくは円勝寺)の名前が記されています。またその北西部には「調練場」とあり、ここで洋式兵隊の訓練が行われたものと思われます。
案内板によると、徳川家康がこの要害に着目し、土井利勝に命じて慶長16年(1611年)から7年間を費やして完成させたという。以来徳川幕府では、江戸の守りとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じたとのこと。
延享3年(1746年)、山形から堀田氏が再び移封されて明治維新に及ぶものの、明治6年(1873年)、第一軍管第二師営の営所が置かれることになり、城の施設はことごとく壊されました。その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった、とのこと。
この案内板の説明から、佐倉城の諸施設がことごとく壊されたのは明治6年(1873年)、第一軍管第二師営が設置されることに伴うものであり、阿部忠忱の撮影した佐倉城の写真は、明治6年以前に撮影されたものであることがわかりました。
ここから佐倉中・佐倉東高(練兵場跡地)の間を通って、「大手門跡」を通過。ここの案内板にも阿部忠忱が明治5年(1872年)頃撮影した大手門の写真が掲載されていました。
この左側の写真には、大手門の下に15、6名ほどの子どもを含む男たちが写っており、これらはもと佐倉藩士およびその子弟であると思われます。
右側の写真にも、日傘を差した男たちを含む8人ほどが写っており、今までの写真全体から考えると、佐倉城の諸施設撤去(破壊)を前にして、そのありし日の姿を写真に残そうとした「記念写真」のようなものである(撮影者は阿部忠忱)と思われます。
「佐倉城大手門跡」と刻まれた石碑前を過ぎ、佐倉市民体育館や済生堂浜野病院跡などを右手に見て、麻賀多神社のところで「武家屋敷→550m」の案内標示に従って右折。
鏑木小路と呼ばれる武家屋敷通り(西村茂樹邸跡もここにある)を通って、時間の関係上、武家屋敷の観覧は断念して、突き当りの「ひよどり坂」の竹林の中を下って、JR成田駅に向かい、帰途に就きました。
終わり
○参考文献
・『風景の記録』(国立歴史民俗博物館)
・『江戸東京年表』(小学館)
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