鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.1月取材旅行「日本橋~板橋~戸田」 その1

2012-01-31 05:27:20 | Weblog

 JR東京駅八重洲中央口に出たのは8:28。

 妻からメールがあって、大きな地震があったというけれども、電車も東京駅もまったくその影響は見られませんでした。

 八重洲中央口前の交差点を渡って、「八重洲通り」を「中央通り」へと向かう。

 この「中央通り」がかつての東海道。取材旅行でもう何度か歩いたことがあります。

 「八重洲通り」の中央にモニュメントのようなものを見掛けたので、横断歩道をそこまで渡って、そのモニュメントに近寄ってみると、手前に「日蘭修好350周年記念 ヤン・ヨーステン記念碑」があり、次のような内容のことが刻まれていました。

 二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされているが、羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、天球儀は“時”の象徴でもある。左側の頭部はヤン・ヨーステン像で、右側の帆船が日本に漂着した際、ヤン・ヨーステンが乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号。中央上部には当時のオランダの国策会社、東インド会社のマークが置かれる。中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしたもの。四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得たもの。

 このあたりにヤン・ヨーステンの碑があるらしいということは知っていましたが、実際、それを目にしたのは初めて。

 碑は赤煉瓦が敷かれた地べたに、碑面が空を向く形で置かれているから、歩道からは目立たないので、気付かなかったのかも知れない。

 「八重洲」というのは「ヤン・ヨーステン」から来ているというから、この界隈にヤン・ヨーステンの居住する屋敷があったものと思われる。

 右手向こう角にブリジストン美術館を見て、「日本橋三丁目」の交差点を左折。

 右手に「Takashimaya」、左手に「MARUZEN」などを見て、「中央通り」を進み、「永代通り」を越えて「日本橋」に到着したのが8:48。

 この今の日本橋は明治44年(1911年)に完成したもの。橋銘は15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、平成11年(1999年)に国の重要文化財に指定されています。

 「道 日本の道100選 中央通り」と記された銘板がはめ込まれている碑があって、この「日本橋」を含む「中央通り」が、「日本の道100選」の一つであることがわかります。

 日本橋川に架かる「日本橋」の上に、巨大な高速道路が走っていて、その側面にも「日本橋」とあり、その新旧両方の「日本橋」の重なりが、現代の「日本橋」の景観と言えるのかも知れない。

 その日本橋川に架かる「日本橋」を渡って、左手に「三越」などを見て進みます。シャッターには、川瀬巴水の「日本橋 夜明け」、歌川広重の「名所江戸百景 する賀てふ」が描かれていました。

 「する賀てふ」というのは「駿河町」のことで、この通りからは西方はるかに富士山を望めたことがわかります。

 現在は通りの奥にビルが建ち並び、富士山が望めるはずもありません。

 「江戸通り」と交わる手前に道路標示があり、この通りをまっすぐ進めば「巣鴨・本郷」へと至ることと、その道が国道17号線であることがわかります。

 その左手に「十軒店(じっけんだな)跡」という案内パネルが立っていました。

 それによると、十軒店は、日本橋から北へ向かう大通りに面する、本石町(ほんごくちょう)二・三丁目と本町(ほんちょう)二・三丁目との間に挟まれた小さな両側町。

 三月の上巳(じょうし)の節句(桃の節句)には、内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具等を、五月の端午の節句には、冑(かぶと)人形・鯉のぼり等を商う人形市が立ち、十二月の歳暮の破魔矢(はまや)・羽子板等を商う市とあわせて大変なにぎわいを見せていたという。

 そのパネルには、葛飾北斎の『画本東都遊』(えほんあずまあそび)の「十軒店雛市」の絵が掲載されていました。その人混みから、「大変なにぎわい」の様子が伝わってきます。

 やはり左手に、「今川橋の由来」「今川橋跡」「今川橋由来碑」というものもありました。

 「由来」や「由来碑」によると、元禄4年(1691年)、この地に東西に掘割が開削され、それは江戸城の外堀(平川)に発してこの地を通り、神田川に入って隅田川に通じていました。始めは「神田堀」「銀堀(しろがねぼり)」「八丁堀」などと呼ばれていましたが、後には「竜閑川」と呼ばれるようになったという。

 この運河(「竜閑川」)が、江戸市中の商品流通の中枢として果たしていた役割は極めて大きく、神田の職人町、日本橋の商人町はそれによって大きく栄えました。

 この掘割には、神田と日本橋の境界として11の橋梁があり、この地に架けられていたのが名主の姓をとった「今川橋」でした。

 かつて、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発って初めて渡るのが、この「今川橋」であったとのこと。

 この「竜閑川」が埋め立てられ、それにともなって「今川橋」も廃橋解体されたのは、戦後間もなくの昭和25年(1950年)のことでした。

 「由来碑」の方には、江戸時代末期頃の今川橋界隈が描かれた絵図が掲載されており、かつての今川橋の様子がわかります。

 日本橋からこの今川橋を渡っていく道が、中山道に通ずる道であったのです。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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