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鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.9月取材旅行「御坂みち」中萩原~上黒駒 その3

2009-09-30 06:42:59 | Weblog
 6:17に、中萩原の旧樋口家屋敷跡にある樋口家の墓地前を出発。

 この樋口家代々の墓所は、もともとここにあったものではなく、屋敷地の北側にありました。それが大正12年(1923年)、一葉の妹くにによりこの場所に移され、昭和56年(1981年)、親戚の田中家によって現在の姿に整えられたもの、であるとのこと。

 この「田中家」というのは、「一葉女史碑」の賛助人の中で、「親戚」として名前が刻まれている「田中為重」(則義の弟喜作の娘はんの夫)の子孫の方かも知れない。「親戚」で「田中」というのは、この「田中為重」1名のみだから。

 ほぼ一直線に延びる青梅街道を、大菩薩峠とは逆の方向、つまり塩山の方に向かって下りました。早朝ということもあって、鶏や犬の鳴き声が聞こえてきます。

 右手やや向こうを流れているのは重川(おもがわ)。

 ここからは富士山は見えない。左手に「重郎原」バス停がありました。一葉の父である樋口大吉(則義)や祖父である樋口八左衛門が生まれたところは中萩原村の重郎原(じゅうろうばら)でしたが、そこからは、富士山は見えなかったのです。

 富士山が見えたのは、文殊川に架かる青野橋(粟生野橋)を渡り、右手に「塩山北中学校」を見て、「室屋入口」バス停を過ぎたあたり。左手方向に、その頂きの三角錐(コニーデ)の部分が見えました。樋口家の墓地前を出発して30分ばかりのところでした。

 安政4年(1857年)の4月6日のおそらく早朝、中萩原村を出立した大吉とあやめは、いったいどこで落ち合ったのだろうか、と考えると、文殊川に架かる粟生野橋のたもとあたりかと、私には思われました(あくまでも推測です)。あやめは当時23歳。大吉は27歳。二人は慈雲寺の寺子屋で知り合ったという。あやめは村きっての美しい娘であったらしい。あやめは、大吉との間の子どもを身ごもっており、妊娠9ヶ月(5月14日に女児〔ふじ〕を出産)。身重での思い切った出立でした。

 『樋口一葉』(台東区立一葉記念館)によると、大吉が「古屋家のあやめを知ったのは、その家が重郎原から慈雲寺に通う農道沿いに在ったから」であるという。

 なぜ目の前の「青梅街道」を利用し大菩薩峠を越えて江戸へ向かわなかったのか、という点については、次のように記されています。

 「当時青梅街道を経由して江戸へ出るためには大菩薩峠の麓にある萩原口留番所を通らなければならなかった。しかし、二人は青梅街道を使わずに、巡礼街道の旧鎌倉往還を使うことにして、御坂峠を越えた。二人が萩原口留番所を通らなかったのは、道幅が非常に狭く、険しい山道であるため、身重のあやめには無理だったからと思われる。また、女性が旅をするにはきびしい制約があって、地元の人間が村を出て遠地へ赴く理由が見つからなかったと考えられる。」(P3)

 「御坂みち」(旧鎌倉街道)を利用して、矢倉沢を経由し、江の島や鎌倉方面へ向かうということであれば、若い男女二人であっても、「江の島」参詣や「鶴岡八幡宮」参詣に、その旅の理由をかこつけることができたということでしょうか(青梅街道ではそういうわけには、なかなかいかない)。

 そして実際に二人は、江の島にも鶴岡八幡宮にも参詣しています。

 新千野橋を渡って、千野駐在所の前を右折。右手に「千野学校跡」を見て、「千野駐在所」バス停を過ぎたのが7:03。

 「千野下」バス停を過ぎて左手に、「千野六地蔵・憧(どう)」というのがありました。

 「塩山温泉入口」バス停を過ぎる頃には、富士山の頂きが、通りの正面やや左手に見えてきました。

 「町屋」交差点を渡り(7:20)、左手に「千島写真館」のレトロな建物を見て、「本町」バス停前を通過。このあたりは塩山上於曽というところで、通りは「中央通り商店街」になっています。このあたりが塩山の中心街。

 中央本線の高架下を潜ったのが7:27。

 中萩原から塩山の中心地まではおよそ1時間半ほどの道のり(もちろん徒歩で)だったということになる。

 道を直進して、やがて「左勝沼、右甲府」というところに出て、右手を見ると菅田(かんだ)神社という立派な神社の杜(もり)が見えたので、その境内を一巡した後、通り沿いのS種苗店のご主人に、ここから「御坂みち」(御坂峠)へ向かう道筋についてお聞きしたところ、丁寧に教えてくれました。

 「甲府方面へ行ったら遠回り。この神社前の道を真っ直ぐ進んで勝沼へ出れば、そこから御坂峠の方へ向かう道があるよ」

 ということでした。

 やはり、「土地のことについては、地元の人に聞くのが一番」ということを、あらためて実感しました。ここで聞いていなければ、石和方面へとずっと歩いていったかも知れません。


 続く


○参考文献
・『樋口一葉と甲州』(山梨県立文学館)
・『資料目録 樋口一葉』(台東区立一葉記念館)


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