鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その4

2008-11-23 06:58:44 | Weblog
 「磯子旧道入口」交差点から旧道に入っていくと、左手に「磯子旧道」の標示がありました。右側には横浜の山手のような丘陵が続いていて、これは「磯子山手」とも呼ばれるようです。

 「宮の下」バス停(神奈中)を過ぎると、左手に墓地のある丘があり、右手には金蔵院というお寺がありました。

 まず左折して、左手の墓地に上がりました。途中右手に古いやや顔のくずれた六地蔵が並んでいます。墓地に上がると、北の方角に、遠くランドマークタワーが見えました。左手は丘(磯子山手)で、その丘陵の手前のふもとに金蔵院があります。この墓地はおそらく金蔵院の墓地なのでしょう。

 この墓地でも、故陸軍歩兵一等兵や故海軍一等兵曹や故陸軍航空伍長の墓を見つけました。

 墓地を下りて、丘陵のふもとの金蔵院へ。ここも高野山真言宗のお寺で、正式には海向山岩松寺金蔵院という。金蔵院の左側の御堂は、妙義神社の護摩堂を移築したもので、安永8年(1779年)の棟札がある、かなり歴史のあるものであるらしい。面白いのは、背後の玉垣に「水産部自治会」「横浜魚市場卸協同組合」「横浜魚類株式会社」などといった水産関係の会社などの文字が見えること。また「鮭塚」と刻まれた石碑(鮭の塚というのは私には珍しい)もありました。なぜこの御堂が水産関係者の信仰を集めていたのか、そのいわれを示すものは何もなく、いまのところその理由はわかりません。

 ふたたび旧道に戻り、しばらく歩くと右手に日枝(ひえ)大神というのがあったので、その長い石段を上がっていくとフェンスが閉じていて神社の境内には入れない。こういう神社は珍しいと思って、中を見ると、ここには幼稚園があり、神社の境内は幼稚園の敷地にもなっているのです。フェンスが閉じているのは、急な石段へと園児が落ちないようにするためのものであるようです。合点がいきました。

 フェンス前で振り返ってみると、煙が出ている煙突のある工場などが見えますが、見晴らしはそれほど広がらない。かつてはこの境内から海(根岸湾)が望めたはずです。

 もとの旧道に戻って、さらに進むと、道はゆるやかに右手にカーブして坂を上っていきます。このあたりは「磯子台」というところですが、沿道に「高層マンション建設絶対反対」「街を破壊するな」といった垂れ幕や旗が目立ちます。

 この道は市バスが走っている道でもあり、汐見台や弘明寺へ向かうバスが走っています。

 左手は横浜プリンスホテルがあり、その向こう側の下の方にはJR根岸線の磯子駅があるようです。

 このまま真っ直ぐ道なりに進んでいくと、海岸からどんどん離れていってしまうので、右手に浜小学校を見ながら汐見台歩道橋をくぐって左折。「金沢・日野方面」へ向かいます(この道をまま真っ直ぐ進むと、岡村・大岡方面へ至る)。

 この左折した道路の両側は、「汐見台団地」という広大な団地。

 右手に「ampm」があったので中に入り、置いてあった新書本などをチラチラと拾い読み。

 少し進んだ右手に「汐見台ストア」があって、その並びに「誠信書店」という小さな本屋さんを見つけたので、品揃えのようすなどを見るために中に入りました。

 そして『まちづくりの実践』田村明(岩波新書)と『戦後10年 東京の下町』京須偕充(文春新書)の2冊を購入。見知らぬ町で出会った小さな本屋さんで、面白そうな本を見つけて購入するのは、なぜか楽しい。

 汐見台ストアの前で、散歩をしている親子連れやまわりのようすを眺めながらしばし休憩した後、ふたたび出発(10:03)。

 汐見台随道を抜け、右手に「屏風ヶ浦町内会館」や「横浜市屏風ヶ浦地域ケアプラザ」「横浜市磯子区生活支援センター」などを見ながら進むと、右手の線路上を走る京浜急行のえんじ色の電車が見えました。

 屏風ヶ浦交差点を右折すると「金沢・上大岡」方面へ至り、また左折して国道16号線に出て右折すれば「横須賀・金沢」方面へ至るということですが、「京急屏風ヶ浦駅」から京浜急行線に沿って歩いてみることにしました。金沢へ至るかつての旧道はどこなのかは、もうとっくの前からわからなくなっています。

 「京急屏風ヶ浦駅」は、前回の取材旅行で、JR根岸駅前からタクシーに乗ってやって来たところ。横須賀へ行く用事があり、雨が降っていることもあって、歩くのをやめタクシーに乗ったのですが、タクシーの運転手さんといろいろ話をしたのを思い出しました。

 京急の線路に沿うように歩き、白旗商店街に出たところで、線路を潜るなどしてさらに路地を進み、「屏風ヶ浦第一踏切」を渡って出た通りを右折。この踏切は、遮断機が上がってからすぐに渡ったのですが、渡りきらないうちに(長さはそれほど長くないのに)すぐに警笛が鳴り響きました。これではお年寄りや体の不自由な人や車椅子の人にはとてもこわい踏切であると思いました。少なくとも歩いて渡る人のことを十分に考慮した「遮断機」間隔ではない(列車の踏切通過間隔)。考えてみると、「遮断機」という言葉も、いつ生まれたのか知れませんが、鉄道優先の“冷たい”言葉です。


 続く


○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿