鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その5

2008-11-24 07:57:10 | Weblog
 京浜急行の線路を「屏風ヶ浦第一踏切」で渡って通りを右折。しばらく進むと「願行寺前」バス停があって、右手に浄土宗願行寺がありました。

 門を入って墓地左手に、「故近衛歩兵上等兵勲八等功七級AM之碑」が立っていて、その背後に「故陸軍歩兵伍長勲八等功七級NM之碑」、「海軍一等整備兵勲八等功七級故SH之碑」、「故野戦砲兵一等卒勲八等SY之碑」が林立しています。「SY之碑」の前には、今まで何度か見かけてきた砲弾をかたどったと思われる線香立てが置いてある。

 ひときわ大きくて目に付いたのは、「陸軍騎兵大尉正七位勲六等功五級 河原流水墓」でした。明治39年(1906年)10月18日に河原伊三郎(施主)により建てられたもの。陸軍士官学校を出たということだから、この「河原流水」という青年将校は、兵士の中でもエリート中のエリートであったことになります。日露戦争に出征し、野戦病院で亡くなったらしい。「享年27」とある。

 「河原」と言えば、その後、墓地をざっと見て回った時に、立派な墓誌のある「河原家之墓」がありました。この河原家と「河原流水」ないし「河原伊三郎」がどうつながるのかはわかりませんが、墓誌によると、ここに住み着いた河原家の先祖は、源頼朝の家臣である河原太郎高直であったという。その高直の子である小太郎がここに住み着き、代々半農半漁の生活を送って来たというのです。ところが河原長治郎(昭和40年に87歳で死去)の時、根岸湾の埋め立てが進み、沿岸における漁業は行われなくなりました。墓誌には、「先祖以来の沿岸漁業すでに絶ゆ 夢なるかな」と刻まれていました。先祖以来代々受け継がれてきた生業(なりわい)の舞台が失われてしまったことへの慟哭(どうこく)が聞こえてくるようです。

 10:56に願行寺の門を出る。

 風邪っ気があるので、省エネモードで歩きます。

 「杉田小学校」バス停前を過ぎると、右手に「プララSUGITA」(プララ東急)が見えてきました。案内板を見ると2階に「本ふるほん村」というのがあるので、興味をそそられエスカレーターで2階へ上がり、「ふるほん村」に入りました。ざっと見て回って、『中央線 駅から登る』船尾修(けやき出版)を購入しました。

 この「プララ東急」は京浜急行杉田駅とつながっているのですが、この「プララ東急」(京急杉田駅)からJR根岸線新杉田駅に至る途中、国道16号線(横須賀街道)の聖天橋(しょうてんばし)までは、「ぷらむろーど杉田」という商店街が続いています。

 土曜日の昼近くということもありますが、通りはほとんど車は通らず、買い物客など行き交う人々で賑わっていました。

 聖天橋交差点に出たところで右折。国道16号線(横須賀街道)を進みます。JR根岸線の高架(根岸線杉田参道ガード)を潜って右折すると、正面に杉田八幡宮が見えました。八幡宮の社殿背後の丘陵の上には、マンションがにょっきりと建っています。かつての参道の趣きはほぼ失われています。

 しかし、境内は七五三の着物姿の子どもたちやその家族で賑わっていました。

 由来書によると、この杉田八幡宮は八幡太郎義家が山城国石清水八幡宮を、この地武蔵国杉田郷に勧請(かんじょう)したもの(頼義が相模国由井郷に勧請したのが鶴岡八幡宮)。久良岐郡の総社であったという。かなり由緒ある神社なのです。社殿前にちょっと変わった狛犬があったので写真に撮りました。

 通りに戻り「杉田」バス停を過ぎると、「金沢」まで7kmの標示。ゆっくり歩いておよそ2時間の行程です。「青砥坂」の信号を過ぎてなだらかな坂を上っていくと「冨岡隧道(ずいどう)」。かつてはとうぜんのことながらトンネルはなく、丘陵を越えていったのでしょうが、そのような旧道らしきものは見当たらない。

 トンネルを抜けると、京急の線路の左脇に出ました。

 「鳥見塚」バス停→「東冨岡」バス停を過ぎ直進すると、「宮の前」バス停があり、冨岡八幡宮は左折して100m先を右折する、との案内標示がありました。ということで旧道らしい道を入って、右手に公園らしきものが見えたところで右折。その公園は「冨岡八幡公園」というものでした。

 公園各所のベンチや芝生には、散策途中の女性たちが弁当を広げている姿が見られました。

 公園右手に「記念碑」と刻まれた四角い石碑があって、なんの記念碑かと見てみると、「海水浴発祥 宮の前海岸跡」の記念碑でした。

 冨岡海岸というのは、大きく「クツモの浜」「東浜」、「宮の前海岸」、「長浜海岸」の四つから構成されていますが、「東浜」というのは長昌寺の東側一帯の入江で、古くから冨岡漁場の港として栄えました。「宮の前海岸」というのは、文字通り、冨岡八幡宮前の海岸で現在の「冨岡八幡公園」のあたり。「長浜海岸」は、冨岡八幡宮下の八幡鼻の南から小柴との境のマサキの鼻(小柴崎とも)に至る2キロ余の海岸のこと。鎌倉時代には「長浜千軒」と言われるほど漁師の家々が建て込んだところであったようですが、応長元年(1311年)の大津波で潰滅してしまったらしい。

 この冨岡海岸では、底曳網漁が行われ、またアサリやハマグリ、海苔などの養殖が行われていました。

 この冨岡海岸(宮の前海岸)を、ヘボンが、東京湾で一番海水浴(塩湯治)に適していると推奨したため、ここには多くの塩湯治客(海水浴客)が訪れることになったのです。

 『私の語る金沢─町の古老に聞く─』によれば、お宮(冨岡八幡宮)の下がすぐ砂浜で、冨岡海岸は遠浅で、アサリ、アオヤギがかなり獲れ、また渡りガニもたくさん獲れたのだという。海苔の養殖も行われ、ベカ舟という全長4mほどの舟(一人乗り)で海苔の採集を行っていたとのこと。ヘボンは、「夏に海水浴をしておくと風邪を引かないし、景色もいいので、冨岡に行ってごらんなさい」と宣伝したのだという。アサリは殻をむいて生姜(ショウガ)を入れて佃煮とし、それを持って商いに出たとのこと。金沢や鎌倉、さらに藤沢や東海道筋にも行商に歩いたことでしょう。

 現在は、かつての冨岡海岸はほぼ完璧に埋め立てられており、かつての遠浅の海のようすをしのばせるものはほとんどありません。

 冨岡八幡公園の空いているベンチに座り、持参のおにぎりとお茶で、目の前の住宅団地のあたりはかつては海であったかと思いつつ、昼食を摂りました。

 足元の地面は砂地で、公園には松の木が生えています。これが、かつてこのあたりが砂浜であったことをうかがわせる数少ない“遺物”であるのかも知れません。


 続く


○参考文献
・『鎌倉市史 近世通史編』第六編第二章「幕末維新期の鎌倉と外国人」(内海孝)
・『幕末異人殺傷録』宮永孝(角川書店)
・『鎌倉英人殺害一件』岡田章雄(有隣新書/有隣堂)
  ※「鎌倉事件」についてはこの本が一番詳しい。労作です。「鎌倉事件」については、この本を多く参照します。
・『金沢今昔地図』
・『私の語る金沢─町の古老に聞く─』
・『金沢八景』(神奈川県立金沢文庫)


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