鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

松本逸也さんの『幕末漂流』について その1

2008-11-11 05:55:22 | Weblog
 清水清次のさらし首の写真のことを思い出したのは、今年の7月、保土ヶ谷道を歩いた時のこと。藤棚の願成寺(がんじょうじ)というお寺の境内にたまたま立ち寄った時に、「鎌倉事件」の犯人として処刑された清水清次と間宮一(はじめ)のお墓があることを知り、「この2人の顔は知っている!」と思ったことにある。間宮については私の記憶違いでしたが、清水の顔については確かに見たことがある。それはさらし首の写真でした。しかし何という本で見たかは思い出せませんでした。

 しばらくして、その清水清次のさらし首の写真が載っている本を見つけました。それは『新版 写真で見る幕末・明治』小沢健志編著(世界文化社)。そのP118~120に「鎌倉事件」関係の写真が掲載されているのですが、そのP120の左下の写真が「清水清次の首」の写真。写したのはフィリーチェ・ベアトでした。

 このさらし首が置いてある場所は、吉田橋のたもと。清水清次が横浜市中を馬に乗せられて引き回された時、すでに清次のための獄門台は吉田橋のたもとに設営されており、それを清次は(市中引き回しの時に)吉田橋を通過する馬の上から目撃しているはずです。

 この吉田橋のたもとに清水清次の首は3日間にわたって晒されたのですが、それをベアトは写真におさめたのです。

 ベアトはかなり離れたところから、この写真を撮っているのですが、私が見た記憶がある写真はもっと近接したところから撮ったものでした。

 つまり、この『新版 写真で見る幕末・明治』で見たのではなかったのです。

 では、何で見たのだろう。

 そう思っていたところが、実は、この松本逸也さんの『幕末漂流』が、私が清水清次のさらし首を見た(つまり清水清次の顔を見た)最初の本であることがわかったのです。

 問題の写真はP285に掲載されています。当然のことながら、『新版 写真で見る幕末・明治』に載っている清水清次の顔と同じです。瞑目した清水清次の首は、平べったい角材の上に固定されています。首の両側には粘土のようなものがあって、それが首を支えています。おそらく角材の台には突起があってそれが首を基本的に固定しているものの、左右に動かないようにさらに粘土か何かで首をがっちりと固定しているのです。

 首を載せている平べったい角材は、二本の角材で支えられており、その獄門台の背後には細い竹のようなもので柵が設けられています。その柵の向こう側はどうも入海(いりうみ)のよう。その向こう側にうっすらと山影が見える。

 背後にこれだけ広々とした海面が広がるということは、この海は「内浦」で太田屋新田とは反対側が写っていることになります。ということは背後に見える山影は奉行所などがある根岸の山(現在の野毛山公園~伊勢山皇太神社~掃部山〔かもんやま〕公園へと続く山並み)。写真の右側は横浜方面(関内)であり、写真の左側は吉田新田方面。清水清次の顔は、東方向(大岡川の上流や太田屋新田、また港崎〔みよざき〕遊郭がある方向)を向いていることになります。

 吉田橋付近の風景は、現在のそれとはまるで異なっているのです。

 『F・ベアト幕末日本写真集』で言うと、P13~14の上半分に、折込のパノラマ写真(野毛山から見た横浜)がありますが、その中央に写っているのが吉田橋(木造で中央に向かってふくらんでいる)。横浜方向へ吉田橋を渡るわけですが、その橋のたもと左手に獄門台が設(しつら)えられていたのだろうと思われます。

 ベアトがなぜこの清水清次ないしそのさらし首に固執したのか(少なくともさらし首の写真を遠くから、また近寄って2枚写しています)は、すでにこのブログで触れました。彼は、殺される直前のイギリス人将校2人に江の島で出会っていたからです。場合によってはベアトら一行も襲われる可能性があったかも知れず、また2人と親しく会話もしていたわけだから、他人事(ひとごと)とは思えなかったことでしょう。

 この清水清次が、ほんとうに「鎌倉事件」の下手人であったかどうかについては疑念があります。またこの清水清次が何ものであったかということについても、いろいろと説があるようです。

 間宮と違って、市中引き回しの時も、処刑の際も、また処刑前の獄舎における様子も、この清水清次という男は大きく乱れることはなく始終冷静であったという。

 ベアト写真集のP52の「鎌倉事件の現場」の説明には、次のように書かれています。

 「しかしその後、真の下手人である、かなり身分が高く、学問があり、頑強で筋骨たくましい、指導的な浪人が捕えられ、1864年12月28日(元治元年11月29日)の朝、戸部において、英国軍隊の面前で公然と打ち首にされた。名前は清水清次である。有力な武士であったが、自分から望んで浪人になった者で、どうしても外国人を殺害したかったと告白した。彼は自分達が鎌倉で襲った2士官を領事であると思っていた。襲撃の模様を綿密に述べているので、彼が主犯であることを誰も疑わなかった。処刑の際の彼の冷静さと勇気は驚くべきもので、もっとよい事のために用いられればと惜しまれる。彼の首は吉田橋の近くに3日間さらされた。」


 続く


○参考文献
・『幕末漂流』松本逸也(人間と歴史社)
・『F・ベアト幕末日本写真集』


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