鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その5

2015-05-06 05:59:09 | Weblog

 西集落の「黒壁集落」を抜けると、東集落へとつながる道路を進むことになりますが、この道を「フラワーロード」というらしい。

 まもなく道路左手に、タイルで「佐久島クラインガルテン」という文字や、魚が躍り上がる海や、白い雲が浮かぶ空などが描かれた大きな案内標示が現れ、左方向を眺めてみると、黒壁の宿泊施設がいくつも並んだ区画がありました。

 それぞれの棟の前には菜園も設けられていて作物が栽培されています。建物は10棟ほど整然と並んでいます。

 これは「佐久島体験マップ」によると、2012年にオープンした体験型農業施設であるとのこと。バーベキュー施設も併設されています。

 その「佐久島クラインガルテン」を左手に見ながら脇道を山の方へと進んで行ってみると、煉瓦製の祠(ほこら)が道脇にあって、その中には弘法大師像のようなものが祀られていました。そして「第六十三番札所」と赤い標示が立てられています。煉瓦製の祠はそれほど古いものではありません。

 これも「佐久島体験マップ」によれば、大正5年(1916年)、四国八十八ヶ所の写し霊場として弘法大師の祠が建造されたが、戦前には島外から多くのお遍路さんが訪れて賑わったのだという。

 これが2012年「三河・佐久島アートプラン21」の取り組みの一環として新しい祠や弘法大師像が造られるなどして、数十年ぶりで復活することになったのだとのこと。

 このような祠を、あとで各所で見ることになりました。

 古いでこぼこの石畳み参道の奥にある白山社の常夜燈には「文化十五年」と刻まれていました。「文化十五年」とは、西暦で言えば1818年であり、この年は「文政元年」にもあたっています。参道の石畳みもおそらくそれと同様に古いものであるでしょう。

 道を戻って、さきほどのフラワーロードに出たところで左折。

 まもなく左手に見えてきたのは佐久島小中学校で、その前面(南側)には「天神の浜」と「大浦」が広がっています。

 その学校敷地の東隣には「藤井佐次郎兵衛之碑」、「筒井正甫之碑」、「忠魂碑」の三基の石碑が並んでいましたが、「藤井佐次郎兵衛」「筒井正甫」がどういう人物であるかはわからない。

 そしてそのやや東側に、「史跡 佐久島古代製塩遺跡」と刻まれた石柱が立っていました。

 これには案内板があって、それによれば、年代は古墳時代中期のものであり、大浦湾に面した砂浜で製塩され、その範囲は200平方メートルに広がっているとのこと。

 ここから多くの製塩土器片が出土したという。

 古代の製塩法は、海水を製塩土器に入れて煮沸し、結晶塩を採る方法で、この地はもっぱら製塩作業場であった、とのこと。

 前の浜を「天神の浜」と言いますが、この浜はかつてはもっと内部の方へも入り込んでいて、そこで製塩が行われていたのです。

 右手に「カモメの駐車場」と記された案内標示があり、「天神の浜」へと突き出したコンクリートの橋を渡って行くと、「大浦「に突き出した突堤の上に、木製のカモメが三列縦隊になって同じ方向を向いていました。

 これも「三河・佐久島アートプラン21」の一環である作品展示の一つであるようです。

 その突堤の左手(東側)にも砂浜が広がっており、それが「大浦海水浴場」でした。

  「カモメの駐車場」となっている突堤の先、「大浦」越しに向こうに見えるのは、「石垣第一号古墳」や「おひるねハウス」のあった石垣(しがけ)の海岸など、西集落の「大浦」沿いの海岸部。その先端(南端)は岩礁が海に向かって張り出しており、「佐久島体験マップ」を見ると、「大明神」と記してあります。

 「大浦海水浴場」の東端からは、コンクリート製の遊歩道が延びており、その角にある岩礁が「戸ヶ瀬岩」(とがせいわ)。

 「佐久島観光協会」の広場には案内マップがあり、この海水浴場のほんの東隣に「東集落」があって、「八劒神社」や「阿弥陀寺」、「船頭重吉の碑」などがあることを確認しました(「佐久島体験マップ」の地図はより詳しい)。

 

 続く

 

〇参考文献

・『愛知県の地名』(平凡社)

・「佐久島体験マップ」



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