天保12年(1841年)の4月4日(旧暦)、猿橋宿の大黒屋で昼食を摂った歌川広重は、大月宿を過ぎて甲州街道を西へと進み、この日は黒野田宿に泊まることになります。
広重は猿橋より駒橋までの道中について次のように記しています。
「猿橋より駒ばしまで十六町、谷川を右になし、高山遠近につらなり、近村の人家まばらに見えて、風景たぐひなし」
下鳥沢宿から猿橋宿までと同様に、猿橋宿から駒橋宿までの沿道の風景も、広重にとってきわめて興趣あるものであったことがうがえます。
大月については、広重は「大月の宿ふじ登山の追分」ありと記し、また「此処に大月の図あり」と記されています。
「ふじ登山の追分」とは、甲州街道と富士道の分岐点ということであり、大月宿の西の突き当りで甲州街道は左右に分かれ、その追分には牛頭天王社の鬱蒼とした杜(もり)がありました。
そこで右に折れて急な坂を大きくカーブして下って行くと桂川を越える大きな木橋があり、それを大月橋と言いました。
追分で左へ折れる道は、「右甲州道中、左ふじみち」の道標が示すように、「富士道」(あるいは「郡内やむら道」)と呼ばれる、富士山に参詣する人々の利用する道でした。
「ふじ登山」とは「富士講」の人々の富士登山であり、当時においては富士登山は多くの人々にとって一般的なものではありませんでした。
「富士講」の人々が富士山の登山口である上吉田へと向かう道であり、また地元の人々が陣屋のある谷村(やむら)へと向かう道でした。谷村には石和代官所の出張陣屋がありました。
この追分や旧甲州街道は大月市郷土資料館で見た「大正時代の職業図」にもはっきりと残っています。
桂川の河岸段丘上にあり、甲州街道が大月宿の西の端にぶつかったところで道は両側に分かれています。
大月駅前から「富士電気会社」の鉄道が甲州街道に出て、街道の南側(追分に向かって街道左側)を進み、この追分で急角度に左へカーブして谷村(やむら)方面へと延びています。
現在の富士急の鉄道は、JR中央線に沿って少し進んでから掘割となって国道20号の下をトンネルで抜け上大月駅に至っています。
右へと折れる道(旧甲州街道)は、その富士急の掘割と中央線によって分断され、現在は失われています。
広重の記述によれば、追分で右に折れて坂道を下れば大きな橋(大月橋)があり、そこから眺める桂川の流れはすさまじく、また奇岩がごろごろしていたようです。
「岩石聳(そび)え、樹木茂り、四方山にして屏風を立(たて)しごとく、山水面白く、また物凄し。」
河岸段丘の斜面に沿って曲がりながら急な坂道を下りると、まるで谷底のようになり、そこから対岸へと延びる大月橋から下を眺めると、桂川が急流をなして奇岩がゴロゴロと露出しており、四方を眺めると樹木の茂る山が屏風のように迫り、河原に沿った崖には浸食された岩肌が露出している、といった風景でした。
その山水の風景は、画家である広重にとって興趣深いものであるとともに自然の荒々しさを感じさせるものでした。
現在その渓谷には、大月橋や中央線の鉄道橋、国道20号の新大月橋が架かっていて、かつて広重が見た風景を想像するのは困難ですが、現在の大月橋から桂川の下流を眺めてみると、その当時の風景をそれなりにしのぶことが出来ます。
続く
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