鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-番外編 相模川水運 その最終回

2017-09-02 08:38:41 | Weblog

 

 「近世の山村と林産物交易─甲州郡内地域を中心に─」(泉雅博)には、林産物交易の具体例の一つとして奈良子村が出て来ます。

 奈良子(ならご)村は猿橋から葛野川(かずのがわ)沿いに遡り、途中で奈良子川沿いに上流へと入ったところにある村(現在は大月市七保町奈良子)。

 周囲には宮地山・水無山・大峰・姥子山などの山々が聳えています。

 この奈良子村は天保9年(1838年)当時、村高35石余、家数は50。人数は292人(男150人・女140人・ほか神主家族)。水田は皆無で耕地はみな畑でした。

 1軒あたり一石にも満たない持高でした。

 しかし交易を目的とした「山内売木」で継続的に大きな利益を上げていたことが、泉論文では示されています。

 享保16年(1731年)、寛保3年(1743年)、宝暦13年(1763年)、安永8年(1779年)、寛政11年(1798年)、寛政12年(1800年)、文化4年(1807年)、文化7年(1810年)などの資料が挙げられています。

 そのうち寛保3年に奈良子村から伐り出された普請用材は、「両国橋御材木」「日光御用木」(日光東照宮の普請用材か)として使われたもので、長さ二間五尺(5m余)から七間五尺(14m余)までの槻(つき・ケヤキ)10本、長さ一間(1.8m余)から三間半(6m余)までの槻・栗・樅(もみ)・栂(つが)2707本でした。

 「山代金」として奈良子村は金50両を受け取ったという。

 年不詳ですが、寛保3年に両国橋御材木・日光御用木を伐り出した後の「酉の年」には奈良子山中より「京都御用木」が伐り出されたとのこと。

 また年不詳の「ならご谷仕様帳下書」によれば、伐採された材木は栂(つが)・槻・塩地・桂・栗等で6500本。入用(必要総経費)として合計で金3161両余、銀12匁5分が見積もられているという。

 以上のような資料から、泉さんは、「奈良子村は村高は少ないが、貨幣的富の非常に豊かな村であったことは歴然」であるとし、また「材木が伐り出され川下げされたとき、巨額の貨幣が動いていたことが歴然となる」と結論づけています。

 この奈良子村の「山内売木」に関係して登場してくる商人は、江戸木場の材木商浜田庄助・江戸霊岸島川口町の材木商和泉屋喜兵衛・江戸深川の材木商万屋和助・江戸の材木商田中屋半十郎・「御本丸・西御丸御用御箸屋」である加藤九左衛門など。

 奈良子村が江戸の材木商などと深いつながりを持っていたことがわかります。

 このような状況は、奈良子村だけでなく道志村や秋川村、小菅村、丹波山(たばやま)村など郡内地方山間部の村々に広く見られたものでした。

 では桂川(相模川)支流の葛野川(かずのがわ)の支流、奈良子川の上流奈良子村から材木はどのように江戸に運ばれたか。

 まず奈良子川と葛野川、および桂川を管流し(くだながし・丸太を一本ずつ流すこと)で材木(丸太)を流し、上野原宿南の新田(あらた)の河原で筏に組み、さらに小倉の河原で大きな筏に組み直し、相模川の河口の須賀(すか)や柳島まで筏で流して、そこから海船(廻船)に積み込んで江戸(あるいは大坂へ)運んでいるようです。

 道志村の場合は道志川を、秋川村の場合は秋川を、丹波山村や小菅村の場合は玉川(多摩川)を利用して、「管流し→筏流し」で材木が運ばれました。

 泉論文では、次のような文章が紹介されています。

 「貨幣等之賑ひに而(て)、近郷・郡中迄茂(までも)潤(うるおい)ニ罷成(まかりなり)…」

 材木の伐り出し・搬出・搬送等で、近在近郷ばかりか郡内地方全体が潤ったということであり、材木の「売木」や薪炭業、また林産加工品の売買により、郡内地方の村々が経済的に大きく潤っていた(大きな貨幣収入を得ていた)ことがわかります。

 その材木や薪炭などの江戸への運送ルート上において大きな役割を果たしていたのが相模川水運(高瀬船・筏流し)であったのです。

 

 終わり

 

〇参考文献

・「近世の山村と林産物交易─甲州郡内地域を中心に─」泉雅博(『山梨県史研究 第10号』所収論文)



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