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鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

天保騒動(甲斐一国騒動) その13

2017-11-02 08:13:41 | Weblog

 犬目村の兵助とともに郡内勢の「頭取」であった下和田村の武七とはどういう人物であったでしょうか。

 この武七について詳しいのは『大月市史 通史編』の記述です。

 それによると治左衛門(武七)は天保7年(1836年)当時においては70歳。妻もと(61)、又右衛門(41)・所助(34)・ふじ(30)・はる(28)・源七(21)・宗達(24・婿)の8人家族。

 文政2年(1822年)頃(56歳)にはわずかな手銭(手持ちのお金)をもとに諸国の問屋を相手に絹その他を扱う仲買商を試みているという。

 文政11年(1828年)頃までは一緒に暮らしていた息子の又右衛門は天保7年(1836年)に出稼ぎのためか人別帳から消えており(当時33歳)、また文政3年(1820年)頃までは同様に一緒に暮らしていた所助は文政11年(1828年)にやはり出稼ぎのためか人別帳から消えているという。

 従って天保7年の夏における武七の家族は、妻の「もと」と娘の「ふじ」と「はる」、それに源七と婿の宗達(はるの夫か)の6人家族(武七を含めて)であったことになります。

 武七の絹織物やその他の仲買商としての規模や行動半径がどのようなものであったかはよく分かりませんが、妻の「もと」や娘の「ふじ」や「はる」が機織りをしていて、出来上がった絹織物を売買することによって現金収入を得ていたことはおそらく確実であり、それは郡内の村々の男たちに共通するものであったことは今まで見てきた通りです。

 息子たちも現金収入を得るために「出稼ぎ」をしており、二人の息子は何らかの事情で「人別帳」から消えているということは「無宿人」となったということであるでしょう。

 天保騒動の記録の一つ『応思穀恩編附録』には、武七に関する次のような記述があり注目されます。

 「平生公事訴訟(くじそしょう)を好ミ、或ハ無宿風来の長脇差などを手馴付(てなれつけ)、仲間の中にてハ親方と称し、何の家職も務(つとめ)ず、其日(その)暮らしの曲者(くせもの)なり」

 常日頃「公事訴訟」を好み、また「無宿人」たちを束ねて仲間内では「親方」と呼ばれ、田畑耕作などの家の仕事に励まないでその日暮らしをしていたというもの。

 「公事訴訟」を好むというのは訴訟や裁判ごとを好んだということであり、特に山間部の村々においては入会山の境界をめぐっての「山論」が盛んであったから、その「山論」などをめぐって代官所(谷村陣屋)などに顔を出す機会が多かったということであるでしょう。

 裏を返せば、訴訟に関する知識があって弁も立ち、村人たちからは頼りにされた人物であったということになります。

 「無宿風来の長脇差」などを手なずけていて仲間内では「親方」と言われていたということはどういうことか。

 「長脇差」は幕末において「博徒」「侠客」の異名であったから、無宿渡世で博打(ばくち)などで生活をしている者たちの「親分」的存在であったということ。

 博徒(ばくと)の親分(多くの子分を持つ)であるとともに、地域の紛争の調停やあるいは訴訟を積極的に買って出るような「侠客」的な人物でもあったということになります。

 「侠客」的な性格を持つ「博徒の親分」であった、ということでしょうか。

 従って「家職」に励まずとも、その日暮らしが出来たのです。

 下和田村の武七家においては、妻や娘たちが「絹稼ぎ」に従事していたことでしょう。

 郡内勢が笹子峠を越えて駒飼宿に達した時、郡中惣代と中心的に交渉をしたのはおそらく兵助ではなく武七であったと考えられ、またそれ以前に駒飼宿の米穀商と米価値段の引き下げをめぐって交渉を行ったのもおそらく武七であり、また『大月市史』によれば、黒野田村の名主兼問屋である泰順はこの武七とともに国中の米穀商(熊野堂村の奥右衛門か)のところへ赴いて米の借り入れの交渉を行っているとのことであり、米価引き下げあるいは米の借り入れなどの交渉に前面に出て行動していたのは、この武七であったと考えられます。

 代官所の役人や郡中惣代、あるいは奥右衛門ら米穀商相手に、堂々と渡り合うことができる胆力や交渉力、弁論力を持った人物であったということが出来るでしょう。

 下和田村は甲州街道猿橋宿から、猿橋を北に渡って桂川の支流葛野川に沿って西へ進んだところにありました。

 幕末から明治中頃にかけて、このあたりの物資の集散地として、また交通上の要地として賑わっていたのは猿橋宿(大月宿ではない)であり、おそらく下和田村の武七はこの猿橋宿を拠点にしてこのあたりの「博徒の親分」として幅を利かせていたものと思われます。

 しかし武七は「公事訴訟」を好むなど、地域の紛争の調停や訴訟ごとに積極的に関わり、地域の人たちからも一目置かれる「侠客」的存在でもあったと考えられます。

 

 続く

 

〇参考文献

・『大月市史 通史編』

・『山梨県史 資料編13』

・『百姓たちの山争い裁判』渡辺尚志(草思社)



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