鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その1

2012-03-19 06:15:17 | Weblog
JR高崎線の宮原駅から中山道に出たのは7:39。前回、バイパスに入って中山道から外れてしまった地点まで戻るべく、交差点を右折。

 途中、道筋で「橋供養塔」と刻まれた古い石造物が、電信柱の近くの歩道のアスファルトから突き出ているのを見掛けました。

 バス停「仲屋前」を通過して、左手の道の奥に「かものみや」(加茂宮)駅を見て、斜めに走るバイパス(国道17号)まで戻ったのが7:50。

 その地点から、ふたたび中山道を宮原方面へととって返しました。

 先ほどの「宮原駅入口」交差点を突っ切って(8:00)しばらく進むと、左手に石畳の奥に瓦葺き屋根の小さなお堂があり、「天神橋」という名のバス停前を通過しました。

 まもなく右手に、中山道に沿ってこんもりと繁った森が見えてきましたが、それが「加茂神社」でした。

 「宮原」の「宮」や、「加茂宮(かものみや)」の「宮」とは、この「加茂神社」のことを指しているようです。

 石畳の参道の向こうに石鳥居や鮮やかな朱塗りの鳥居があって、その手前右手には「村社加茂神社」と刻まれた石塔が立っています。

 また石燈籠には「宝暦三」「奉納加茂大明神御宝前」とか、「文政十亥」といった文字が刻まれており、それらが1753年や1827年のものであることがわかります。

 「加茂神社」もかつては「加茂大明神」であったのでしょう。

 「歴史散歩コース《中山道とむかしの道》」というイラストマップを見てみると、「宮原中学校」のところに「宇宙飛行士若田光一さんも在校しました」という文字が飛び込んできました。若田光一さんはこのあたりの出身のようです。

 またこのあたりの中山道の近くに、「浅間様(せんげんさま)」が三つあり、しかもそのイラストを見てみると、それぞれが築山(つきやま)になっており、いわゆる「富士塚」のような形をしています。しかも「産業道路」の近くの「浅間様」のイラストには、「富士山を模して築いたんだ 高いなあ!」という言葉まで添えられています。

 中山道からそれほど遠く離れているようではないので、心惹かれるままに、それぞれの「浅間様」を、それが実際どういうものなのか訪ねてみることにしました。

 そのイラストマップの案内板がなかったなら、それらを訪ねようとは思っていなかったはずです。

 デジカメで案内マップを撮影。これを保存しておけば、道に迷ったとしてもその画像を見ればまず大丈夫。今のデジカメは画像をズームアップして見ることができるので、案内マップの全体や一部などをあらかじめ撮影しておけば、知らない場所の「みちあるき」も迷わずに歩くことができます。大体の位置を押さえておけば、道に迷ったとしても、細かいところは地元の方に尋ねればまず目的地まで至ることができます。

 まず目指したのは、若田光一さんの出身中学校である宮原中学校の前を通過して、産業道路手前を左手に入ったところにある「浅間様」でした。

 「加茂神社」前で右折して、「加茂神社通り」を越え、「県道鴻巣桶川さいたま線宮原歩道橋」の横を通過すると、右手に「さいたま市指定天然記念物 宮原小学校のセンダン」という案内柱があって、校舎手前にその案内板もありました。

 その案内板によると、この宮原小学校のセンダンは、同校の開校当時、教鞭をとっていた一教師が帰省した折、郷里の高知より苗木を持参して植えたものと言われているとのこと。

 樹齢は100年であるらしい。

 「海辺の山地に生える暖地性の落葉高木」がここに生育しているのは、もともとここにそれが自生していたのではなく、高知出身の教員が郷里から持ち帰って植えたものであるらしいということを知りました。

 「宮原中学校(西)」交差点で右折して(8:25)、宮原中学校を右手に見て途中で左手の道に入ると、「浅間公園」という公園があって、その近くに「吉野神社(氷川神社)摂社浅間神社 御祭神木花開那姫命(このはなのさくやひめのみこと) 初山例大祭七月一日」と記された看板があり、その左隅に、「富士山をご神体とし、初山祭りといわれ、この年に生まれた子供は、母親に抱かれて『初めて山』に登り、額に朱印を押してもらい健やかな成長を祈ります」と小さく書かれていました。

 そしてその樹木の繁った三角形の築山へと登る石段の登り口左手には大きな石碑があって、その表面に「参明登開山 角行 食行」と刻まれていました。

 「角行」も「食行」も、「富士講」の開祖(特に食行身禄〔じきぎょうみろく〕は、富士講が講として爆発的に広がるきっかけとなった人物)であるから、この築山はいわゆる富士講関係の「富士塚」であると判断されます。この近辺の富士講関係者たちが築き上げたものと思われます。

 さっそく、その富士塚の石段を登ってみることにしました。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『江戸近郊道しるべ』村尾嘉陵(東洋文庫/平凡社)


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