鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

北前船を追う-横手から角館へ その7

2016-07-12 06:01:03 | Weblog

 表町上丁を北上して突き当たった通りが「角館バイパス」(国道46号)で、そこで左折してしばらくして古城橋で桧木内川を渡り、橋上から上流と下流を眺めました。

 両側の土手は桧木内川堤であり、その川堤には桜並木が延びています。桜が咲く時期には、美しい景観が広がるだろうと思われました。

 北東部には角館城址のある古城山がこんもりとした繁りを見せています。

 この桧木内川は玉川の支流であり、水深はそれほど深くはないものの小舟が往来できるほどの水量はあるようです。しかし実際、小舟が往来していたかどうかはわかりません。

 玉川の方は、岩瀬河港の上流にある広久内河港まで玉川小舟が遡行したという記述(『雄物川の河川交通』)がありました。

 少なくとも上流地域山林地帯から切り出した木材を筏(いかだ)に組んで、この桧木内川を流した可能性は十分にあるように思われました。

 道を戻り、途中で右折。

 「真壁氏屋敷跡地」を経て南に進むと、茅葺屋根の小ぶりな屋敷が目を惹きました。

 その茅葺の屋敷は「旧松本家住宅主屋」との案内板があり、それによるとこの「松本家」は佐竹家の重臣今宮家の組下で、佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移ったという。

 松本家は今宮家の組下ということで当初は田町に住居を構えていましたが、後、佐竹北家の組下となり、現在の小人町に移って今日に及んだといいます。

 建築年代は幕末頃。

 屋敷の回りには芝垣をめぐらしています。しかし旧藩時代は殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていたとのこと。

 下屋をおろした玄関を入ると縁側があり、その左側に便所、縁側の向こうに居間〈4.5畳〉があって、その右に座敷兼仏間〈6畳〉があります。その向こう側は水屋に続く広縁になっています。

 旧藩時代、下級武士の住宅のたたずまいはこのようなものであったことを、具体的に知ることができました。

 案内板にあるように、「近世武士住宅の姿を知る上で貴重」な建物でした。

 「稲庭干饂飩」のお店(佐藤養助店・創業は蔓延元年〈1860年〉)に立ち寄って、稲庭うどんをお土産として購入し、商店街を進んでいくと、右手に石造りのような2階建ての商店があり、木造の商店が多い商店街の中では異彩を放っていることから、立ち寄って見ることにしました。

 右側面に、「皆様の店イオヤ」と書かれた看板と、「結納品 目録 受書 荷物目録 荷物受書 家族書 親類書」と記された大きな看板が掲げられていましたが、店頭に並べられている商品を見てみると、日用雑貨品全般を売るお店であるようでした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『雄物川の河川交通』斎藤實則(秋田県文化財保護協会)



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