「武家屋敷小田野家」の案内板によると、この小田野家は今宮弾正の配下で、角館の菅沢町(現在の田町武家屋敷)に居住していました。
やがて小田野家は分家をつくりますが、ここの小田野主水家は、長右衛門家から分かれた清右衛門家の系統であり、あの「秋田蘭画」の小田野直武は長右衛門家の系統であるとのこと。
両家とも佐竹北家の組下に変わったようです。
長右衛門家から出た小田野直武は、秋田にやってきた平賀源内からその画才を認められ、洋風画を伝授されます。
安永3年(1774年)江戸に出た直武は、平賀源内から本格的に洋風画を学び、翌年には江戸に滞在していた角館城代佐竹義躬や秋田藩主佐竹曙山らに洋風画を指南し、「秋田蘭画派」が形成されました。
小田野直武の最高傑作は「不忍池図」とされています。
直武は、「実質的に、日本における本格的な洋画制作のパイオニア」と評されています。
銅版画家として有名な司馬江漢は、この直武から初めて洋画法を伝授されています。
この武家屋敷にある小田野家は、しかし、長右衛門家から分かれた清右衛門家の系統であることを知りました。
「武家屋敷岩橋家」の岩橋家は、もともとは南奥州の名門今津黒川城主芦名氏の重臣でしたが、慶長7年(1602年)の佐竹氏の出羽移封(常陸から)に伴い、佐竹北家の組下に入ったとのこと。
「武家屋敷石黒家」の石黒家は、案内板によると角館で現存する6軒の武家屋敷の中では最も古く(母屋)、地主時代の道具や諸帳簿が展示されているという。
田町武家屋敷の西宮家もそうですが、この石黒家も、地主として幕末・明治を生き延びており、他の武家屋敷もおそらく地主として家を存続させてきたように推測されましたが、その地主としての支配の実態がどのようなものであったかは、調べることはできませんでした。
「表町上丁」の突き当りで左折し、角館の西側を南北に流れているという桧木内川(ひのきないがわ)に出てみることにしました。
続く
〇参考文献
・『秋田蘭画の近代 小田野直武「不忍池図」を読む』今橋理子(東京大学出版会)
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