鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その3

2013-10-27 06:21:01 | Weblog

 駐車場に車を停め、「田原市観光MAP」をまず確認。田原市には過去何度か訪れていますが、中心市内全体をじっくり歩いたことはまだありません。

 「田原市観光MAP」には、「城の道」「椿の道」「花の道」「鳥の道」「プロムナード」など、「崋山をしのぶ五つの道」(ウォーキングコース)が紹介されてあり、いつか、季節のいい時にゆっくりと歩いてみたいと思いました。

 その「観光MAP」の左下には渥美半島全体の観光マップが掲載されており、先端の伊良湖岬や恋路ヶ浜なども紹介されています。

 恋路ヶ浜で、太平洋上から昇る荘厳な日の出を見たことを思い出しました。

 先ほど立ち寄った吉胡(よしご)貝塚の位置を確認してみると、その吉胡貝塚は田原湾に注ぎ込む汐川の河口部付近に位置しており、その近くには「汐川干潟」とも記されています。

 縄文海進時には、汐川河口部はかなり奥まで海(現在の田原湾の延長)であったと思われました。

 もしかしたら田原市中央図書館や田原文化会館があるあたりも、縄文時代には海であったのではないか。

 「田原市博物館 周辺のご案内」もありました。

 それによれば、私が車を停めた広い駐車場は、「空堀」に続いており、かつては堀であったところを埋め立てたものであるようです。

 田原市博物館は、「桜門」を潜り、「二ノ丸櫓を左手に見て左折しても入れますが、ここからだと、「空堀」内の遊歩道を上がり、上がったところで右折しても入れます(それが近道)。

 この「空堀」内の遊歩道も、すでに何度か歩いたことがある。

 「空堀」内の遊歩道を上がりきって、左折して進んだところにあるのが「巴江(はこう)神社」。

 「桜門」に向かって左側に残る堀が「枡堀」で、右側に残る堀が「袖池」。

 つまり「田原市博物館」は、かつての田原城内に設けられていることになります。

 「空堀」内の遊歩道は木道となっていて、その突き当りの石段を上がって広場に出ると、右手奥に「桜門」が見え、その右手前に「二ノ丸櫓」の石垣と白い壁が見えます。

 土曜日の9時前ですが、散歩する人や観光客の姿はほとんどなく、あたりは静寂そのもの。

 「田原市博物館」の入口である門は、その「二ノ丸櫓」の手前を右折したところにあり、左の柱には「花・鳥・動物の美」と記された記念企画展のポスターが貼られていました。

 「ニノ丸櫓」は「文化財収蔵庫」であって、「ニノ丸櫓展示中 吉胡貝塚・山崎遺跡・渥美古窯・田原城」とあり、「無料で観覧できます」と記されています。

 ここもかつて観覧したことがありますが、「吉胡貝塚」に立ち寄ったこともあって、あとで是非、また観覧してみたいと思いました。

 「田原市博物館」には、「崋山文庫」という施設も附帯しています。しかしその入口の扉には、「この施設は公開しておりません」との貼り紙。

 「キラリ100選」の「田原市博物館」の案内板には、この「田原市博物館」は、田原城・ニノ丸跡に建設されたものであり、渡辺崋山、田原藩をはじめとする、田原市の歴史資料が多数展示され、田原市の歴史を紹介するシンボルとなっている、と記されていました。

 以前に家族3人で訪れた時は、折悪しく閉館中であって、残念な思いをしたことを思い出しました。

 一旦、博物館の門の外へ出て、「田原城跡」の案内板に目を通しました。

 それによると、この田原城は文明12年(1480年)頃、戸田宗光によって渥美半島統一の拠点として築城されたもの。以後70年にわたって栄えたものの、今川義元によって攻略されて落城。

 1万2千石で三宅康勝が入城したのが寛文4年(1664年)で、それ以後三宅氏の居城として栄え、明治維新を迎えたという。

 田原城は、かつては海が城の周囲に入り込み、入江を形成していたため、その状況が巴文(ともえもん)に似ていることから、巴江(はこう)城とも呼ばれている、とも記されており、かつては海がほんそばまで広がっていたことがわかります。

 縄文時代どころか、現在の田原湾は、中世あるいは近世のはじめあたりまで、現在の田原城跡近くまで入り込んでいたことになります。

 また「空堀」などは、「中世城館の遺構」であるとも記されていました。

 その説明文の下に記されている「歴代田原城主」の一覧を見てみると、「三宅土佐守康勝」が、「挙母(豊田市)より移封 一万二千石」としるされています。

 この三宅康勝(1628~1687)が三河田原藩の初代藩主であり、三河挙母(ころも)藩の3代藩主である人物。

 その三河挙母藩の2代藩主が三宅康信(1563~1632)で、その康信の父が三河挙母藩の初代藩主である三宅康貞(1544~1615・通称惣右衛門)。

 この三宅康貞が田原藩三宅家の初代(藩祖)であり、家康から武州三ヶ尻に領地を与えられた人物であり(三河挙母藩主となる前)、その旧領である三ヶ尻調査を藩主三宅康直から命ぜられたのが渡辺崋山であったことは、すでに触れたところです。

 崋山に三ヶ尻調査を命じた三宅康直の名前は、後ろから2番目に記されており、「文政10年(1827)~」と藩主としての治世開始年が示されていました。

 興味深いのは、その案内板に「明治はじめのニノ丸櫓」の古写真が掲載されていることであり、明治初年に、田原城内ないし城跡で、西洋の写真機を使って写真を撮った人物がいたことになります。

 それが誰かは、撮影した人物の名前が記入されていないことから、おそらく不明であるようです。

 

 続く

 

〇参考文献

・展示図録『渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美』所収「崋山・椿山の写実表現」(鈴木利昌)〔田原市博物館〕



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