鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「白山丸」を造った人々

2019-01-12 07:32:28 | Weblog

 『北前船 寄港地と交易の物語』加藤貞仁=文 鐙啓記=写真(無明舎出版)には次のように「白山丸」建造について記されています。

 安政五年(一八五八)に宿根木で建造された「幸栄丸」の板図(船の設計図)をもとに、平成十年に復元された。船名は、地元の白山神社にちなむ。

 板図は通常、真横から見た姿だけを描く。それだけで、当時の船大工には十分だった。博物館にはたくさんの板図が保存されており、学芸員(平成十四年九月当時)の高藤一郎平さんは「たまたま幸栄丸は、上から見た横幅がわかる図も残されていたおかげで、現代の我々でも復元できた」と言う。

 では復元した「現代の我々」とはどういう人々だったのか。

 そのことを知ることができる解説パネルも館内には展示されていました。

 それらによると、千石船復元のきっかけは宿根木住民である石塚敏行氏が千石船復元の賛同者を募るチラシを配布したことにあったようです。

 それが平成4年の3月のこと。

 その7月に宿根木に「千石船建造推進委員会」が発足して小木町に千石船建造の企画書を提出。

 その年11月には千石船建造の先進地である岩手県大船渡市へ8名が視察を行っています。

 その視察を受けて平成5年9月、大船渡市から気仙船匠会の船大工10名が小木町にやってきます。

 平成6年6月、小木町に「千石船復原検討委員会」が発足。

 平成7年には委員会の小木町への建造陳情と、町長との協議が繰り返されます。

 委員会は、維持管理や耐用年数を考慮して、「陸上展示方式」を要望します。

 平成8年4月に「小木町農山漁村活性化推進協議会」が発足。

 そしてついにその年5月に国の補助を受けて復元事業の実施が正式決定となりました。

 それを受けてその年11月、「小木町農山漁村活性化推進協議会」のメンバーが岩手県大船渡市を訪問して建造の協力依頼を行い、また12月に小木町職員が大船渡市を訪問し、千石船建造用材の調達を要請しました。

 平成9年1月、千石船建造を気仙船匠会に正式に委嘱。

 その年5月から千石船建造が「小型」作りから始まりました(25日から)。

 「小型」作りというのは、「板図」(板に描かれた船の設計図=船の10分の1の大きさ)にもとづいて10分の1の大きさの船模型を作ることで、本船建造の作業と同様な手法、技術を使うもの。

 この「小型」作りは平成9年7月6日まで行われ、棟梁はじめ3人で117人工の作業でした。

 3人×39日=117日工ということでしょう。

 その完成を受けてその年7月に大船渡市から船大工4名が小木町にやって来ます。

 「白山丸」本船の建造がいよいよ始まることになります。

 本船の建造は7月11日から始まり、平成10年3月24日についに完成します。

 かかった期日は延べ10ヶ月に及ぶものでした。

 棟梁はじめ14人で2100人工。

 「小型」作りと合わせて2217人工でした。

 解説パネルによると、江戸時代の天保年間に造られた積石数500石級(白山丸とほぼ同じ)の建造には、船大工1950人工、木挽(こびき)550人工、合計2500人工が平均的でした。

 船はまっすぐな材料を使うことがほとんどないので、専属に木挽がついたという。

 機械や電気道具などはなくすべて手仕事の時代のことであるが、今回の「白山丸」建造では木挽の仕事は機械を使用するものであったものの、合計の人工はほぼ同じであったという。

 延べ10ヶ月間と2217人工をかけて、「白山丸」が完成したのが平成10年3月24日のことで、その「竣工式」が盛大に行われたのは6月1日のことでした。

 このように「千石船」建造の足取りを見てくると、宿根木の住民である石塚敏行氏のチラシ配りから始まって、宿根木や小木町の人々を大きく巻きこんで「地域活性化」のために推進されていった事業であることがわかります。

 そしてその建造の実際を担ったのは「千石船建造の先進地」岩手県大船渡市の「気仙船匠会」の船大工であったことがわかります。

 さらに千石船建造用材の調達についても大船渡市に依頼しています。

 小木町と岩手県大船渡市、また「気仙船匠会」との緊密な連携・協力のもとに進められていった事業でもあったのです。

 「小型」作りは棟梁はじめ3人。

 本船造りは棟梁はじめ14人。

 おそらく「気仙船匠会」の船大工と地元の大工の方が一緒に協力し合って建造していったものと思われます。

 館内には、小木町に長期滞在して建造に従事した岩手県大船渡市「気仙船匠会」の船大工の方たちと地元の人々との交流や親睦を示す展示も多数ありました。

 博物館にたくさんの板図が保存されており、そして「白山丸」のモデルとなった「幸栄丸」についてはたまたま上から見た横幅がわかる図が残されていたこと、そして宿根木の集落が千石船産業の基地として繁栄した長い歴史をもっていたことが、この全国的にも貴重な実物大復元「北前船」である「白山丸」の建造につながったことがよくわかりました。

 

〇参考文献

 『北前船 寄港地と交易の物語』と小木民俗博物館の展示解説パネル

                                                 続く 

 



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