鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「北前船」のバラスト

2019-01-11 07:46:08 | Weblog

 この「白山丸」には外側に階段があって甲板から内部へ入って、内部を見学することができました。

 実物大の「北前船」の内部に入るのは初めての体験。

 内部には船頭の部屋もあり、そこには畳が敷かれていて船箪笥(ふなだんす)が置かれていました。

 この船箪笥は建物内の展示品の中にもあり、その解説パネルによると、船箪笥は「小木最大の輸出工芸品」であり、それは千石船(北前船)で使われるものであったため、産地は日本海沿岸に限られていました。

 中でも三大産地は、福井県(越前)の三国、越後佐渡の小木、山形県(出羽国)の酒田でした。

 この船箪笥には金銭や帳簿類などが入れられており、万一海難に遭って海に放り出されたとしても、壊れず、沈まず、水が中に入らないように工夫されていました。

 水に浮く耐水金庫のようなもの。

 岩や陸地にぶつかってもそう簡単に壊れることがない頑丈なものでした。

 佐渡の小木は、その船箪笥の一大生産地でした。

 階段で内部に下りて行くと米俵が置いてありました。

 「北前船」が日本海を西へと航行し、下関や瀬戸内海を経て大坂へと向かう場合の最大の積荷は米でした。

 つまり「廻米」が「北前船」の最大の存在理由であり、大坂へと運ぶ米が米俵として満載されていました。

 米は重く、船のバランスを保つための「バラスト」の役割も果たしましたが、米を下ろしてしまえば高い帆柱のある船は不安定となり、船のバランスを保つための「バラスト」として重量物を船底に積み込みました。

 その代表的なものが石材でした。

 その大きな石材が一つ船底に置かれていました。

 実際はもっと多数の石材が船底に積載されていたことでしょう。

 その石材には「御影石」と記された解説パネルが置かれ、それには以下のようなことが記されていました。

 この御影石は瀬戸内海地方で産出されたものを尾道港で積み込み持ち帰ったもの。

 宿根木(しゅくねぎ)には御影石で造られた「船つなぎ石」、お宮(白山神社)にはやはり御影石で造られた石鳥居や石灯籠、また称光寺川にも2本の石橋が架けられています。

 御影石は建築の基礎や川の護岸にも使われている良質で美しい石材であり、御影石とともに石の加工技術者(石工)も同行してきており、佐渡の石工の技術はこのような背景があって発達したもの。

 単に石材を運んで来ただけでなく、石の加工技術も石工の渡来とともに伝わってきたということであり、「北前船」は「もの」だけではなく「文化」や「技術」も運んで来たものであることがわかります。

 「北前船」で運ばれた石材は今までも各地で見掛けました。

 北海道の松前や江差、青森県の深浦や鰺ヶ沢、秋田県の土崎、山形県の酒田など「北前船」の寄港地やその周辺各地。

 私には、とりわけ越前の三国湊で積み込まれた福井城下足羽山(あすわやま)産出の笏谷石(しゃくだにいし)に興味関心があります。

 瀬戸内海地方の御影石とともにこの足羽山産出の笏谷石も各地で見ることができました。

 バラストとしての重量物である石材は、このように「北前船」の船底に置かれて(積載されて)、日本海沿岸各地に運ばれたのだということを、「白山丸」で実感することができました。

 建築物(とりわけ寺社)の基礎石・墓石・神社の石鳥居や石灯籠・お寺や神社の石段や石畳み・石橋・船つなぎ石など、さまざまなところにそれらの石材は使われていました。

 受け入れる側にも豊かな財力や、また深い信仰心があったということです。

 

                                         続く



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