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案内板によると、この「藤川宿脇本陣跡」の門は、大西喜太夫(橘屋)の門で、現在残っている藤川宿内では古い遺構であるとのこと。敷地は現在の跡地の4倍の広さがあったという。
資料館に入ると、解説パネルや写真パネルなどが掲示され、宿場のジオラマが展示されていました。
ジオラマを見ると、東海道に沿って両側に人家が軒を並べ、その両側は田畑や森林になっています。宿場の長さは約1kmほどであったとのこと。
ジオラマには吉良道の分岐点、および吉良道もしっかり設けられています。
「本陣跡」は、「脇本陣跡」の東隣にあり、本陣の建物はなく大きな広場になっていました。
「本陣跡」の案内板によれば、藤川宿には当初2軒の本陣があったが、東海道の中でも小さい宿場であったことからここに宿泊する旅行者は少なく、本陣・脇本陣の経営は厳しく、そのため本陣・脇本陣の経営者は退転と交代を繰り返したとのこと。
北側には畑があり、畑を囲っていた石垣は現在も残されているという。
またこの案内板には、脇本陣の門が「享保四年(一七一九)」に建築されたものであると明記されていました。
「東海道と藤川宿」の案内板では、天保14年(1843年)の「宿村大概帳」の記録によると、藤川宿の総人口は1213人、家数は302軒となっている、とありました。
東海道の宿場では規模の小さい宿場であったのです。
広場から北を望むと、国道1号線や山綱川を隔てて、なだらかな丘陵のようなおだやかな山並みが見えました。
街道をさらに東へと歩いて行くと、「景観重要建造物」である「旧野村家住宅(米屋)」や問屋場跡、津島神社の常夜燈などがあり、国道1号線が街道から外れたことによる、かつての宿場の雰囲気が濃厚に残る道筋を堪能することができました。
「東棒鼻跡」は、いったん右折し、少し進んで左折(この部分を地元の人たちは「曲手」〔かねんて〕という)して、少し歩いたところにありました。
「東棒鼻跡」の案内板には、広重の藤川宿棒鼻の版画は、幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行(「御馬進献」の行列)がここ東棒鼻へ入ってくるところを描いたものである、と記されていました。
広重の絵は、藤川宿の「東棒鼻」を描いたものであったのです。
「東棒鼻」の案内板によると、広重の絵や古写真にもとづいて、この宿囲石垣は復元されたものであって、昔のものそのままではないことがわかりました。
崋山は、この「東棒鼻」から少し歩いたところから、振り返ってこの「東棒鼻」を描いています。
「東棒鼻」の宿囲石垣の左手には大きな茶屋らしき建物が描かれていますが、現在はそこは畑になっていて何も建物はありません。
また崋山の絵では、宿囲石垣の奥の道筋両側に人家が軒を並べていますが、現在は右手はともかくも、左手には奥に1,2軒の人家が見えるばかりです。
崋山の絵で、家並みの奥に見える小山は、右側の宿囲石垣の右手にある案内板の上に顔をのぞかせています。
茶屋らしき建物の左側に見えるのは、藤川宿の南側にある山。これは現在もはっきりと見ることができます。
続く
〇参考文献
・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」
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