鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-佐久島~藤川宿~吉田宿-その15

2015-06-24 05:00:16 | Weblog

 東海道藤川宿の「東棒鼻」の手前、藤川宿の東端、「曲手」(かねんて)が始まるところの左手に大きな常夜燈が立っています。

 「秋葉山常夜燈」と刻まれており、今まで各地で見掛けてきた「秋葉山常夜燈」の一つでした。

 秋葉山信仰の深い浸透を知ることができる石造物です。

 東京の「秋葉原」も、もともとは秋葉神社のあった原っぱであったと聞いたことがあります。「あきはばら」ではなく「あきばはら」であったのです。

 「藤川宿の『曲手』」と記された案内板によれば、地元の人たちは、この辺りを「曲手」(かねんて)と呼んでおり、直線状に来た道を直角に右に曲がり、また左へとクランク状に曲がる道をそう呼んだという。

 その効用は、外敵から宿場町を守るためとか、道を曲げることによって街道の長さをふやし、そこに住む人を増やしたとも言われているとのこと。

 この付近は、当時、道中記にも書かれて繁盛した茶屋「かどや佐七」跡が曲がり角にあり、常夜燈(秋葉山灯篭)、そして東棒鼻などがあり、江戸期の面影をとどめている、とも記されていました。

 「東棒鼻」の付近に、左手に「むらさき麦栽培地」と記された案内板がありました。

 芭蕉の句にもあるように、藤川宿一帯ではかつて、紫色に染まる麦が作られており、これを「むらさき麦」と呼んでいました。

 しかし戦後作られなくなり、幻の麦となっていたものを、平成6年に地元の人々の努力によってふたたび栽培されるようになり、以後、毎年5月中旬から下旬にかけて、その美しい色を鑑賞することができる、といったことがその案内板には記されていました。

 この「むらさき麦栽培地」は、「西棒鼻」付近にもありました。

 「東棒鼻」を出て国道1号線に入り東進していくと、「山中八幡宮→」と記された案内標示があり、それに従って右折すると、田んぼ道の突き当りに大きな常夜燈が立っていました。

 まるで田んぼの真ん中に立っているような常夜燈。

 近付いて見ると、「天保四」「春三月」といった文字が刻まれています。

 崋山がこのあたりを通過したのは天保4年(1833年)の4月19日のお昼頃であったから、この常夜燈は新築間もないものであったことになります。

 沿道から目立つものであったから、崋山一行もこの田んぼの中の、真新しい巨大常夜燈を目にしたものと思われます。

 しかし、この山中八幡宮に立ち寄ったかどうかはわかりません。

 山中八幡宮は、この常夜燈の前で右折した道の突き当り、小さな丘陵の麓にその赤い鳥居がありました。

 案内板によると、家康の家臣菅沼定顕(さだあき)が、上宮寺(じょうぐうじ)から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟(はとがくつ)があるとのこと。

 またこの社叢は、「愛知県山中八幡宮自然環境保全地域」にも指定されていました。

 「デンデンガッサリ」という田植え神事(岡崎市指定無形民俗文化財)も保存されているとのこと。

 また大クスノキは「岡崎市指定天然記念物」となっており、樹高は20m余、県下最大級の規模を誇っているという。

 そこから国道1号線へと戻り、すぐに左斜め方向に分岐する旧東海道へと入りました。

 「舞木町」を過ぎ、「本宿」に至りました。

 案内板によると、この「本宿」は、中世以降は法蔵寺の門前を中心に町並みが形成されたとのこと。

 近世に入り、東海道赤坂宿と藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしたという。

 法蔵寺前と長沢村境四ツ谷に「立場茶屋」があったという。

 本宿は古くから麻縄の産地として知られ、農家の副業として麻細工が盛んであったとも。

 法蔵寺は、歴代の松平氏をはじめ、家康幼少時のゆかりの寺として、近世を通じて下馬の寺であり、往来する諸大名をはじめ、旅人の参詣が跡を絶たなかったという。

 またシーボルトが、この辺りの山中から法蔵寺裏山にかけて、植物採集をしたといったことも記されていました。

 本宿には、「宇都野龍碩邸跡と長屋門」もあり、7代龍碩は、シーボルト門人青木周弼(しゅうすけ)に医学を学んだ蘭方医として知られているとのこと。

 「岡崎市都市景観環境賞」の銘板のある「神谷合名會社」の、重厚な木造2階建て商店を左手に見て、「本宿陣屋跡と代官屋敷(現富田病院)」の案内板の前に至りました。

 

 続く

 

〇参考文献

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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