![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/6e/fa1cfe1c44075dcdac216e4bc59f3ac6.jpg)
吉良道が東海道に合流する地点の角には、「吉良道道標」と記された案内板があり、その傍らに石柱の道標が立っていました。
案内板によると、藤川宿の西端で東海道から南西方向に分岐する道があり、それは土呂(とろ・現岡崎市福岡町)、西尾(現西尾市)、吉良方面へ出る道であり、それを「吉良道」と呼んでいる、といったことが記されています。
その分岐点に立っているのが「吉良道道しるべ」。
道しるべ石は高さ143cmの四角柱で、彫られている文字は、
〈右面〉文化十一年甲戌五月吉日建
〈正面〉西尾、平坂、土呂、吉良道
〈左面〉東都小石川住□□
江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道あった、といったことも記されていました。
「参勤交代」というのは、西尾藩の藩主松平家(大給松平家)の参勤交代であったでしょう。
「海産物」というのは三河湾で獲れた魚介類であり、また「饗庭塩」などもあったはすです。
「文化十一年」(1814年)に建てられた道標であるから、吉良道から東海道に入った崋山も当然これを見たことと思われます。
崋山は日記に、「吉良道石榜」と記しています。そこから西へと進んだところに「横スカ大半ト云博徒」が住んでいたらしい。
この分岐点で東海道を左に曲がれば、黒松の並木道(「藤川のまつ並木」)を経て岡崎方面へ至り、右へと曲がれば藤川宿に至ることになります。
いったん左折して見事な黒松の並木道を通過してから折り返し、吉良道への分岐点に戻ったのが11:10。
そのまま藤川宿の方へと東海道を進みました。
崋山もここで東海道へと入り、東方向に進んで藤川宿へと向かいました。
「東海道 →400m 藤川のまつ並木 ←600m 藤川宿資料館・本陣跡」と記された道標があり、その「藤川宿資料館・本陣跡」を目指しました。
途中、一里塚跡や、右手の「十王堂」境内に芭蕉句碑がありました。
この芭蕉句碑については崋山も実見したようです。
日記に、「ムラサキ麦、フルソウト云麦一種、はせをノ句アリ」
「はせをノ句」とは、
「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた」
というもの。
句碑の裏面には、「寛政五歳次癸丑冬十月 当国雪門月亭其雄并連中 以高隆山川之石再建」と記されているから、崋山がここを通過した時にはすでにここに建てられていたから、目にしたことと思われる。
高さ1.65m、幅は1.07mもあり、この近辺の芭蕉句碑の中では最大級であるとのこと。
右手に「十王堂」を見て進んで行くと、左手に藤川小学校があり、そこに「西棒鼻」と記された案内板がありました。
それによると、「棒鼻」とは宿場のはずれのことを言い、ここは藤川宿の西のはずれであり、東のはずれには「東棒鼻」があるとのこと。
「牓示杭」(ぼうじくい・境界を示す杭)と宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)が、その景観を際立たせている、とのこと。
歌川広重が東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」で描いているように、藤川宿の「棒鼻」の施設は有名であったようです。
そこからしばらく歩くと、「歴史の息づく、住みよいまち 藤川」と書かれた案内板があり、藤川宿の概要などが記されていました。
それによると、藤川宿は東海道五十三次、三十七番目の宿場であり、天保14年(1843年)時点での宿内人口は、1213人(男540人 女673人)。総戸数は302軒。
本陣は森川家一軒、脇本陣は橘屋大西家一軒で、ともに中町にあり、旅籠屋は大7軒、中16軒、小13軒。
幕府直轄の宿場で代官によって支配を受けていました。
藤川宿は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の四宿連名で荷車の使用を願い出て、街道中で初めて幕府の許可をもらっていた、とも記されていました。
藤川宿の棒鼻については、大名行列の際はここで本陣・問屋等は出迎えて口上を述べ、また宿から差し出される下座触の「シタニオレッ─」も、この棒鼻から始まる場合が多かったといったことが記されていました。
むらさき麦と藤の花については、藤川では、むらさき麦と藤の花が美しく、道中記や古歌に多く詠まれてきた、とあって、芭蕉の句や『東海道名所記』の文章が紹介されていました。
藤川宿といえば、むらさき麦と藤の花、そして棒鼻が有名であったらしいことが、この案内板から知ることができました。
その案内板の通り隔てた斜め前にあったのが、「史跡 藤川宿脇本陣跡」で、現在は「藤川宿資料館」として活用されていました。
続く
〇参考文献
・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます