鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

北前船を追う-松前と江差 続編その13

2017-07-02 07:10:54 | Weblog

 

 案内板によると、江戸時代には灯台の原形である灯明台がここには建てられていました。

 そして明治22年(1889年)に木造の灯台に建て替えられ、昭和26年(1951年)に現在の鉄筋コンクリートの灯台に建て替えられたとのこと。

 灯台のテラスからは360度を見渡すことができました。

 空気が澄みきっていれば北方向に奥尻島が見えるそうですが、この朝は晴天でしたが海上の雲のため奥尻島は見えませんでした。

 南方向には薄い雲の中に、海を隔てて上ノ国町の夷王山(いおうやま・標高159m)がかすかに見えました。

 松前氏の祖である武田信広の勝山館(かつやまたて)はその夷王山の頂き近くにありました。

 江差の町の背後にある山は元山(522m)や笹山(611m)。

 近くには昭和7年(1932年)に建立された「江差追分節記念碑」がありました。

 「江差追分節」には「鷗島は地から生えたか浮島か」という一節があり、鷗島はその形状から江差の沖合に浮かぶ「浮島」のように見えたということであるでしょう。まるで江差の沖合に浮かぶ大きな船のようにも見えたのです。

 「鷗島灯台」より南方向に突き出した島の南端部へと向かうと、右手(日本海側)崖下の平らな岩浜に穴が二つあり、それは「弁慶の足跡」と伝えられているもの。

 また途中、左手(江差側)には沖合に「開陽丸」が見えました。

 鷗島の南端には「キネツカ台場跡」があり、案内板によると、明治2年(1869年)4月、江差を占拠していた旧幕府軍は攻めてきた新政府軍の軍艦に対してこのキネツカ台場から砲撃を行ったとありました。

 この「キネツカ台場跡」の平原からは、南方向に渡島(おしま)半島の海岸とその右手に広がる日本海が見えました。

 その島の南端から江差町側の遊歩道を、右手の朝日を浴びる江差の町を見ながら歩き、島の北端へと向かうと、左手に「江差追分の功労者」である初代浜田喜一の銅像と、その右側に尺八伴奏を追分節に導入した小路(こうじ)豊太郎の石碑がありました。

 そこからすぐ先の左手に「厳島神社」がありました。

 案内板によると、境内には加州(石川県)の船頭たちが寄進した石鳥居や、方向の刻まれた手洗石(ちょうずいし)が残されているとのこと。

 その石鳥居には、「奉献 加刕橋立舩頭中」「天保九年戊戌三月吉日」と刻まれていました。

 「加刕橋立」とは「加賀国橋立」のことであり、「橋立」は18世紀末に43人の北前船主がいたという加賀前田家の支藩大聖寺藩の村。

 手洗石の上面には確かに方角の刻まれた方位図があり、その側面には「村上客舩中 奉納 安政六年巳未六月吉日」という刻字がわずかに判読できました。

 この「村上」とは江差の廻船問屋村上家のこと。

 社殿は朱塗りの新しいものでした。

 例の『江差屏風』の鷗島の部分を見てみると、千畳敷から上へと延びる坂道があり、それを上がりきったところに赤い屋根の厳島神社の社殿が描かれています。

 この絵を見ると社殿は南向きであり、朱塗りの鳥居は社殿の南側にあります。社殿と鳥居の間にあるのは拝殿のように思われます。

 それ以外の建物は島の上にはありません。

 この絵は江戸時代中期のもの。

 「旧郡役所」にあった「江差真景(明治24年)」を見ても、鷗島の台地上にある建物は「厳島神社」と木造の鷗島灯台、それに江差町側の崖上にある建物だけ。

 「旧郡役所」にあった鷗島の沖合に北前船が密集する写真に見える島上の大きな建造物は、その位置から言ってもやはり厳島神社であったと推定されます。

 鷗島の厳島神社は、北前船の船上からも、そして江差の町からもよく見えたのです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『北前船 寄港地と交易の物語』(無明舎出版)



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