古地図を見ると「郡代屋敷」はかなり広いものであることがわかります。その頃には「靖国通り」という幅広い通りは走っていません。
「郡代屋敷跡」という案内板によると、郡代屋敷は、関東郡代の執務室兼住宅。関東郡代は代々伊奈氏の世襲でしたが、寛政4年(1792年)に勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、勘定奉行が居住するところとなったらしい。文化3年(1806年)に関東郡代制は廃止されることになったという。
関東郡代の伊奈氏と聞いて、私の脳裡に浮かぶのは、宝永4年(1707年)の富士山大爆発の「降り砂」の甚大な被害が生じた後、新たに幕領となった旧小田原藩領の砂除川浚奉行に任命された関東郡代(関東代官頭)の伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)。任命されたのは宝永5年の閏1月7日のことでした。
永原慶ニさんの『富士山宝永大爆発』には、伊奈氏について次のような記述がある。
「伊奈氏は三河出身の徳川譜代で、家康に従って関東に入った忠次(1550~1610)が、武蔵足立郡の小室陣屋(伊奈町)に居て一万石を領し、代官頭として関東とその周辺の幕領支配を取りしきった。子の忠治は赤山陣屋(川口市)に居り、以後代々七〇〇〇~四〇〇〇石ほどの大身の旗本となった。…伊奈氏は検地・新田開発・河川改修などをはじめとする地方(じかた)支配・土木技術を得意とし、代々関東郡代の職を世襲した家筋である。…忠順はすでに永代橋架橋や利根川・荒川治水などにも手腕を発揮しており、経験も豊かであった。」
砂除川浚奉行に任命された伊奈忠順は、早くも同月18日に酒匂(さかわ)に赴き、小田原藩からの引き継ぎを行っていますが、酒匂の会所に赴くため出立したのは、この浅草御門内の郡代屋敷であったことでしょう。
この「郡代屋敷跡」の一部は、現在、日本橋女学館中・高の敷地になっていますが、その敷地の浅草橋寄りに「出土した江戸時代の石垣石」というのが展示されていました。
説明によると、これは柳原土手を構築した石垣の石が地下1mから出土したもので、伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石であるという。この石などが積み上げられた石垣は6段前後、高さは3~4mもあったらしい。柳原土手の石垣が、江戸城の一角を成していたことを示すもの。
黒田涼さんの『江戸城を歩く』には、
「神田川沿いにはビルが立ち並んでいて近づけません。交番脇から続く川に一番近い通りは『柳原通り』と言います。この名の由来は、このあたりにあった『柳原土手』にちなみます。これは外堀の守りを固めるための土手が浅草橋門から秋葉原あたりまでずっと続いており、土手の上に柳の木が植えられていたことによりますが、一八七三年(明治六年)に土手が崩され、現在はまったくその痕跡はありません。」
横山松三郎が写した「浅草見附」の写真(明治4年)の浅草橋の向こうには、浅草橋門から続く石垣や土手のようなものが写っていますが、これが神田川沿いに、浅草橋門から秋葉原あたりまでずっと続いていた「柳原土手」の一部。現在はビルが密集しており、その川沿いのビルに沿って「柳原通り」が秋葉原方面にずっと延びています。
その柳原通りを、右手に左衛門橋を見て直進しますが、この左衛門橋は江戸時代にはなかったもの。
右手に美倉橋。この橋は江戸時代に「新し橋」と呼ばれていたらしい。
右手に和泉橋を見て歩道橋を渡ると、下りたところに「柳原土手跡」の案内板がありました。
それによると、「柳原土手」は、西は「筋違(すじかい)橋」から東は「浅草橋」まで、長さ10丁余(約1km)ありました。「柳樹多くあり」とあります。土手上には柳の並木があり、土手上にはよしず張りの古着屋や古道具屋などが店を並べていました。町屋は土手の南側下まで軒を並べ、土手の上を人々は通行していたとのこと。ここの土手の左側には籾蔵がありましたが、安政4年(1857年)に町屋となりました。
そしてこのよしず張りの古着屋や古道具屋が軒を並べ、多くの人々が往き来していた土手は、明治6年(1873年)に、浅草御門の撤去と同時に崩されてしまったということになります。
左手に、かつての東京の名残りを漂わせる4軒の店が並んでいるのを見て通りを進むと、やがて右手に「柳森神社」という、そこだけが江戸の情緒を漂わせているような神社が現れました。
続く
○参考文献
・『江戸城を歩く』黒田涼(祥伝社新書/祥伝社)
・『写真で見る江戸東京』芳賀徹・岡部昌幸(新潮社)
・『富士山宝永大爆発』永原慶ニ(集英社新書/集英社)
「郡代屋敷跡」という案内板によると、郡代屋敷は、関東郡代の執務室兼住宅。関東郡代は代々伊奈氏の世襲でしたが、寛政4年(1792年)に勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、勘定奉行が居住するところとなったらしい。文化3年(1806年)に関東郡代制は廃止されることになったという。
関東郡代の伊奈氏と聞いて、私の脳裡に浮かぶのは、宝永4年(1707年)の富士山大爆発の「降り砂」の甚大な被害が生じた後、新たに幕領となった旧小田原藩領の砂除川浚奉行に任命された関東郡代(関東代官頭)の伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)。任命されたのは宝永5年の閏1月7日のことでした。
永原慶ニさんの『富士山宝永大爆発』には、伊奈氏について次のような記述がある。
「伊奈氏は三河出身の徳川譜代で、家康に従って関東に入った忠次(1550~1610)が、武蔵足立郡の小室陣屋(伊奈町)に居て一万石を領し、代官頭として関東とその周辺の幕領支配を取りしきった。子の忠治は赤山陣屋(川口市)に居り、以後代々七〇〇〇~四〇〇〇石ほどの大身の旗本となった。…伊奈氏は検地・新田開発・河川改修などをはじめとする地方(じかた)支配・土木技術を得意とし、代々関東郡代の職を世襲した家筋である。…忠順はすでに永代橋架橋や利根川・荒川治水などにも手腕を発揮しており、経験も豊かであった。」
砂除川浚奉行に任命された伊奈忠順は、早くも同月18日に酒匂(さかわ)に赴き、小田原藩からの引き継ぎを行っていますが、酒匂の会所に赴くため出立したのは、この浅草御門内の郡代屋敷であったことでしょう。
この「郡代屋敷跡」の一部は、現在、日本橋女学館中・高の敷地になっていますが、その敷地の浅草橋寄りに「出土した江戸時代の石垣石」というのが展示されていました。
説明によると、これは柳原土手を構築した石垣の石が地下1mから出土したもので、伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石であるという。この石などが積み上げられた石垣は6段前後、高さは3~4mもあったらしい。柳原土手の石垣が、江戸城の一角を成していたことを示すもの。
黒田涼さんの『江戸城を歩く』には、
「神田川沿いにはビルが立ち並んでいて近づけません。交番脇から続く川に一番近い通りは『柳原通り』と言います。この名の由来は、このあたりにあった『柳原土手』にちなみます。これは外堀の守りを固めるための土手が浅草橋門から秋葉原あたりまでずっと続いており、土手の上に柳の木が植えられていたことによりますが、一八七三年(明治六年)に土手が崩され、現在はまったくその痕跡はありません。」
横山松三郎が写した「浅草見附」の写真(明治4年)の浅草橋の向こうには、浅草橋門から続く石垣や土手のようなものが写っていますが、これが神田川沿いに、浅草橋門から秋葉原あたりまでずっと続いていた「柳原土手」の一部。現在はビルが密集しており、その川沿いのビルに沿って「柳原通り」が秋葉原方面にずっと延びています。
その柳原通りを、右手に左衛門橋を見て直進しますが、この左衛門橋は江戸時代にはなかったもの。
右手に美倉橋。この橋は江戸時代に「新し橋」と呼ばれていたらしい。
右手に和泉橋を見て歩道橋を渡ると、下りたところに「柳原土手跡」の案内板がありました。
それによると、「柳原土手」は、西は「筋違(すじかい)橋」から東は「浅草橋」まで、長さ10丁余(約1km)ありました。「柳樹多くあり」とあります。土手上には柳の並木があり、土手上にはよしず張りの古着屋や古道具屋などが店を並べていました。町屋は土手の南側下まで軒を並べ、土手の上を人々は通行していたとのこと。ここの土手の左側には籾蔵がありましたが、安政4年(1857年)に町屋となりました。
そしてこのよしず張りの古着屋や古道具屋が軒を並べ、多くの人々が往き来していた土手は、明治6年(1873年)に、浅草御門の撤去と同時に崩されてしまったということになります。
左手に、かつての東京の名残りを漂わせる4軒の店が並んでいるのを見て通りを進むと、やがて右手に「柳森神社」という、そこだけが江戸の情緒を漂わせているような神社が現れました。
続く
○参考文献
・『江戸城を歩く』黒田涼(祥伝社新書/祥伝社)
・『写真で見る江戸東京』芳賀徹・岡部昌幸(新潮社)
・『富士山宝永大爆発』永原慶ニ(集英社新書/集英社)
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