この厚木東高校は、明治39年(1906年)4月1日に「愛甲郡立女子実業補習学校」として開校します。「愛甲郡立実業女学校」→「愛甲郡立実科高等女学校」→「神奈川県立厚木実科高等女学校」→「神奈川県立厚木高等女学校」→「神奈川県立厚木女子高等学校」を経て、昭和25年4月1日に「神奈川県立厚木東高等学校」と改称。昭和56年4月7日に男女共学となり、現在に至っているとのことです(会場で配布されている「厚木東高等学校の歴史」というプリントによる)。
会場に入るとまず目についたのは、真ん中に置かれている制服。明治時代の「エビ茶袴」、大正時代の「エビ茶袴白線入り」、昭和戦時中の「セーラー服とモンペ」、昭和20年代の「セーラー服」、昭和30~40代の「紺のブレザー」、そして現在の「グレーのブレザー」が展示されていました。歴史の古さを感じさせるものでした。
会場の壁に展示されている写真は、明治40年から現在にかけてのものですが、女学校・女子高校が長かったこともあって、写っている生徒のほとんどは女子であり、女生徒の風俗(髪型・制服など)の変遷(百年間の)をざっとうかがい知ることが出来ました。
明治40年の第一回卒業生の記念写真は、袴姿で髪型は丸髷(まるまげ)です。
大正4年(1915年)の郡立実科高女時代の記念写真の姿も丸髷。男性教員はみな「髭(ひげ)」を生やしています。
大正13年(1924年)の写真になると、髪型は丸髷ではなく、前髪を「七・三」に分け、なでつけるようになっています。男性教員は、年配の者は髭を生やし、若い教員は髭を生やしていない。
明治・大正の女学生を見ると、全体的には、「ずんぐり・むっくり」(失礼)としていて目と目の間がやや離れています。
昭和4年(1929年)の富士登山の写真を見ると、セーラー服になり、三つ編みの生徒が登場します。三分の一ほどの生徒が三つ編みです。
昭和5年(1930年)の球技大会の写真では、写っている11人の生徒のうち、6,7名が三つ編みであることが確認されます。
昭和8年(1933年)の夏の丹沢登山では、多くが白い帽子や麦藁(むぎわら)帽子を被(かぶ)っています。
昭和16年(1941年)の、綾瀬・報国寮における合宿訓練の写真では、全員が「おかっぱ頭」で鉢巻を締めています。三つ編みの生徒はいません。
昭和17年(1942年)の卒業旅行で、清水寺の門前で写した写真でも、三つ編みの生徒は見かけない。背景の清水寺の門の「國威宣揚」「挙國一致」の文字が、当時の世情をうかがわせます。
太平洋戦争の開始(昭和16年〔1941年〕12月8日)によって、三つ編みはなくなったのかと思いきや、昭和19年(1944年)の学徒勤労動員の生徒5人の写真を見ると、全員が三つ編みでした。そしてもんぺ姿です。
明治・大正の写真と昭和の写真を見比べてみると、「ずんぐり・むっくり」で丸顔で目と目の間が広い女生徒であったのが、昭和になると、背が高くなり、顔も細面(ほそおもて)になり、目と目の間が狭くなります。あんまりいい言い方ではありませんが、垢抜けたような、すっきりした顔立ちの生徒が多くなっているように思えます。
食生活の変化や生活スタイルの変化の影響でしょうか。
「厚木東高校創立百周年」のカラーポスターも展示されていました。よく見ると、戦前の女生徒や女子高時代の女生徒の姿などもきちんと描きこまれていました。
会場で目を引いたのは、神奈川県内の空襲に関する展示でした。
それによると、神奈川県内におけるB29による空襲は、昭和19年11月24日から昭和20年(1945年)8月15日(終戦の日)までなんと52回。
平塚大空襲は昭和20年7月16日。落とされた焼夷弾は44万7716発。この数は全国1、2位を争うもので、市民一人あたり8.3個落とされた勘定になるそうです。
横浜大空襲は、昭和20年5月29日。多くの空襲が夜間に行われたのに対し、この横浜大空襲は、午前9時15分から10時30分にかけて行われました。
マリアナ諸島の基地を飛び立ったB29爆撃機517機と、硫黄島の基地を飛び立ったP51戦闘機101機、合わせて600余機が、1時間35分にわたって、「戦爆連合」による波状攻撃を加えます。多くの人々は、職場や勤労動員先、あるいは学校、電車の中で空襲に遭います。大型焼夷弾が2万2224発、小型焼夷弾が41万5968発投下され、死者は一万人以上(いまだに正確な数は分かっていない)、横浜市の44%が焼失します。
空爆の音は、横須賀・小田原ばかりか、遠く静岡市まで聞こえたといいます。黒煙は茨城県まで流れ、霞ヶ浦では焼けた紙片が舞ったといいます。
川崎大空襲は、まず昭和20年4月4日。B29が50機。死者194名。二回目が4月15日。B29が194機。死者約1000人。焼夷弾が1万2748発。高性能爆弾162発。破砕性爆弾が98発。
小田原空襲は、昭和20年8月15日未明。市街の約3割が焼失しています。死者は48名。
厚木では、本厚木駅周辺と停車中の電車が、艦載機の機銃掃射を受けます。昭和20年2月17日、7月10日、そして8月11日。多数の死傷者が出たそうです。
それらの都市には、学徒勤労動員の学生(女子生徒も含めて)が働いていました。
厚木高女学徒勤労動員は、昭和19年の7月から昭和20年の8月15日まで行われます。
溝ノ口の、日本光学川崎製作所に出動した厚木高女300名(当時の3,4年生)の写真を見ると、左腕に「厚木高等女学校学徒動員」と書かれた腕章を巻き、また頭には、「神風」(間に赤い日の丸)と書かれた白い鉢巻を巻いています。また、「へちま襟」の白いブラウスを着て、モンペを穿き、防空頭巾を被り、そして万一の場合に胸に名札をつけていたようです。日本光学川崎製作所では、戦闘機に使う爆撃照準器のレンズを作っていました。
ほかには、寒川の相模海軍工廠(ここの跡地には、今でも、石造りの毒ガス兵器貯蔵倉庫が残っているとのこと)、相模原陸軍造兵廠、中津飛行場などに動員されたそうです。
愛川町の大東化工では防毒マスクを作っていたらしい。
「照準器のレンズ」の製作というと、私は、黒沢明の「一番美しく」という映画(1944・東宝)を思い出しました。あの映画では、各地から集まって工場で働く「女子挺身隊」の姿が描かれていました。調べてみると、その映画の舞台になったのは日本光学工業(現ニコン)の平塚工場。工場長は名優志村喬。寮母は入江たか子。主役の渡辺つるを演じるのは矢口陽子(翌年黒沢明の夫人になります)。黒沢監督の、戦意高揚の目的のために作られた唯一の国策映画ですが、その強い制約のもと、当時の戦時下における若い女性たちの葛藤や思いやり、そして伸びやかさ(戦時にも関わらず)がいきいきと描かれた作品でした。女優たちは、実際に工場で働き、寮に寝泊りしながら、撮影に臨んだということです。
台の上に並べられたパンフレットなどの中に、『厚木高女学徒勤労動員の記 阿夫利嶺(あふりね)にこだまして』という自費出版の本(「青葉会」という同期会の方々の体験談と貴重な記録が記されたもの)が置いてありました。図書館にあったら是非目を通してみたいと思いました。
外側の展示ケースには、『コンプトン百科事典』(全文英文)が並べられていました。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の民事局が、戦後ただ一度行った「全関東学校図書館コンクール」で、厚木女子高等学校が見事関東一位に輝き、マッカーサーより賞品として贈られた百科事典だそうです。
「夕焼け小焼け」(「夕焼け小焼けで日が暮れて……」というあの歌です)の作者中村雨紅(1897~1972・多摩郡恩方村生まれ・青山師範学校卒・野口雨情に師事・1919年、22歳の時に「夕焼け小焼け」を創る)が昭和元年(1926年)から昭和24年(1949年)まで、厚木高等女学校に在職していた(昭和12年頃に写した「餅つき大会」の写真に写っていました)ということは、初めて知りました。
会場には、卒業生と思われる年配の方や若い女性が来ていました。
学徒動員の女学生は、今では70半ばでしょう。昭和20年頃の自分の写真を見つけるかも知れません。
明治40年からの女学生の写真をずっーと見てきて、思うことは、この女学生たちは、その後どういう人生を生きたのだろう、ということです。結婚をし、子供を産み、そして育て、また、働き、老い、やがて死んでいったのです。中には、空襲で死んでいった者もいるかも知れない。夫や子どもを戦争で失った人も少なからずいることでしょう。
一人一人の顔を眺めていき、思わず長い時間を過ごしてしまいました。
来る10月15日(日)、厚木市文化会館で、百周年記念文化部発表会で、「青葉会」の方が、戦争体験について講演されるとのことです。
では、また。
追加「夕焼け小焼け」の歌詞)※作曲者は草川信
1 夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
おててつないでみなかえろう
烏(からす)といっしょにかえりましょう
2 子供がかえった あとからは
まるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは
空にはきらきら金の星
☆作曲者の「草川信」についても、ネットで検索すると、いろいろ出てきますよ。
会場に入るとまず目についたのは、真ん中に置かれている制服。明治時代の「エビ茶袴」、大正時代の「エビ茶袴白線入り」、昭和戦時中の「セーラー服とモンペ」、昭和20年代の「セーラー服」、昭和30~40代の「紺のブレザー」、そして現在の「グレーのブレザー」が展示されていました。歴史の古さを感じさせるものでした。
会場の壁に展示されている写真は、明治40年から現在にかけてのものですが、女学校・女子高校が長かったこともあって、写っている生徒のほとんどは女子であり、女生徒の風俗(髪型・制服など)の変遷(百年間の)をざっとうかがい知ることが出来ました。
明治40年の第一回卒業生の記念写真は、袴姿で髪型は丸髷(まるまげ)です。
大正4年(1915年)の郡立実科高女時代の記念写真の姿も丸髷。男性教員はみな「髭(ひげ)」を生やしています。
大正13年(1924年)の写真になると、髪型は丸髷ではなく、前髪を「七・三」に分け、なでつけるようになっています。男性教員は、年配の者は髭を生やし、若い教員は髭を生やしていない。
明治・大正の女学生を見ると、全体的には、「ずんぐり・むっくり」(失礼)としていて目と目の間がやや離れています。
昭和4年(1929年)の富士登山の写真を見ると、セーラー服になり、三つ編みの生徒が登場します。三分の一ほどの生徒が三つ編みです。
昭和5年(1930年)の球技大会の写真では、写っている11人の生徒のうち、6,7名が三つ編みであることが確認されます。
昭和8年(1933年)の夏の丹沢登山では、多くが白い帽子や麦藁(むぎわら)帽子を被(かぶ)っています。
昭和16年(1941年)の、綾瀬・報国寮における合宿訓練の写真では、全員が「おかっぱ頭」で鉢巻を締めています。三つ編みの生徒はいません。
昭和17年(1942年)の卒業旅行で、清水寺の門前で写した写真でも、三つ編みの生徒は見かけない。背景の清水寺の門の「國威宣揚」「挙國一致」の文字が、当時の世情をうかがわせます。
太平洋戦争の開始(昭和16年〔1941年〕12月8日)によって、三つ編みはなくなったのかと思いきや、昭和19年(1944年)の学徒勤労動員の生徒5人の写真を見ると、全員が三つ編みでした。そしてもんぺ姿です。
明治・大正の写真と昭和の写真を見比べてみると、「ずんぐり・むっくり」で丸顔で目と目の間が広い女生徒であったのが、昭和になると、背が高くなり、顔も細面(ほそおもて)になり、目と目の間が狭くなります。あんまりいい言い方ではありませんが、垢抜けたような、すっきりした顔立ちの生徒が多くなっているように思えます。
食生活の変化や生活スタイルの変化の影響でしょうか。
「厚木東高校創立百周年」のカラーポスターも展示されていました。よく見ると、戦前の女生徒や女子高時代の女生徒の姿などもきちんと描きこまれていました。
会場で目を引いたのは、神奈川県内の空襲に関する展示でした。
それによると、神奈川県内におけるB29による空襲は、昭和19年11月24日から昭和20年(1945年)8月15日(終戦の日)までなんと52回。
平塚大空襲は昭和20年7月16日。落とされた焼夷弾は44万7716発。この数は全国1、2位を争うもので、市民一人あたり8.3個落とされた勘定になるそうです。
横浜大空襲は、昭和20年5月29日。多くの空襲が夜間に行われたのに対し、この横浜大空襲は、午前9時15分から10時30分にかけて行われました。
マリアナ諸島の基地を飛び立ったB29爆撃機517機と、硫黄島の基地を飛び立ったP51戦闘機101機、合わせて600余機が、1時間35分にわたって、「戦爆連合」による波状攻撃を加えます。多くの人々は、職場や勤労動員先、あるいは学校、電車の中で空襲に遭います。大型焼夷弾が2万2224発、小型焼夷弾が41万5968発投下され、死者は一万人以上(いまだに正確な数は分かっていない)、横浜市の44%が焼失します。
空爆の音は、横須賀・小田原ばかりか、遠く静岡市まで聞こえたといいます。黒煙は茨城県まで流れ、霞ヶ浦では焼けた紙片が舞ったといいます。
川崎大空襲は、まず昭和20年4月4日。B29が50機。死者194名。二回目が4月15日。B29が194機。死者約1000人。焼夷弾が1万2748発。高性能爆弾162発。破砕性爆弾が98発。
小田原空襲は、昭和20年8月15日未明。市街の約3割が焼失しています。死者は48名。
厚木では、本厚木駅周辺と停車中の電車が、艦載機の機銃掃射を受けます。昭和20年2月17日、7月10日、そして8月11日。多数の死傷者が出たそうです。
それらの都市には、学徒勤労動員の学生(女子生徒も含めて)が働いていました。
厚木高女学徒勤労動員は、昭和19年の7月から昭和20年の8月15日まで行われます。
溝ノ口の、日本光学川崎製作所に出動した厚木高女300名(当時の3,4年生)の写真を見ると、左腕に「厚木高等女学校学徒動員」と書かれた腕章を巻き、また頭には、「神風」(間に赤い日の丸)と書かれた白い鉢巻を巻いています。また、「へちま襟」の白いブラウスを着て、モンペを穿き、防空頭巾を被り、そして万一の場合に胸に名札をつけていたようです。日本光学川崎製作所では、戦闘機に使う爆撃照準器のレンズを作っていました。
ほかには、寒川の相模海軍工廠(ここの跡地には、今でも、石造りの毒ガス兵器貯蔵倉庫が残っているとのこと)、相模原陸軍造兵廠、中津飛行場などに動員されたそうです。
愛川町の大東化工では防毒マスクを作っていたらしい。
「照準器のレンズ」の製作というと、私は、黒沢明の「一番美しく」という映画(1944・東宝)を思い出しました。あの映画では、各地から集まって工場で働く「女子挺身隊」の姿が描かれていました。調べてみると、その映画の舞台になったのは日本光学工業(現ニコン)の平塚工場。工場長は名優志村喬。寮母は入江たか子。主役の渡辺つるを演じるのは矢口陽子(翌年黒沢明の夫人になります)。黒沢監督の、戦意高揚の目的のために作られた唯一の国策映画ですが、その強い制約のもと、当時の戦時下における若い女性たちの葛藤や思いやり、そして伸びやかさ(戦時にも関わらず)がいきいきと描かれた作品でした。女優たちは、実際に工場で働き、寮に寝泊りしながら、撮影に臨んだということです。
台の上に並べられたパンフレットなどの中に、『厚木高女学徒勤労動員の記 阿夫利嶺(あふりね)にこだまして』という自費出版の本(「青葉会」という同期会の方々の体験談と貴重な記録が記されたもの)が置いてありました。図書館にあったら是非目を通してみたいと思いました。
外側の展示ケースには、『コンプトン百科事典』(全文英文)が並べられていました。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の民事局が、戦後ただ一度行った「全関東学校図書館コンクール」で、厚木女子高等学校が見事関東一位に輝き、マッカーサーより賞品として贈られた百科事典だそうです。
「夕焼け小焼け」(「夕焼け小焼けで日が暮れて……」というあの歌です)の作者中村雨紅(1897~1972・多摩郡恩方村生まれ・青山師範学校卒・野口雨情に師事・1919年、22歳の時に「夕焼け小焼け」を創る)が昭和元年(1926年)から昭和24年(1949年)まで、厚木高等女学校に在職していた(昭和12年頃に写した「餅つき大会」の写真に写っていました)ということは、初めて知りました。
会場には、卒業生と思われる年配の方や若い女性が来ていました。
学徒動員の女学生は、今では70半ばでしょう。昭和20年頃の自分の写真を見つけるかも知れません。
明治40年からの女学生の写真をずっーと見てきて、思うことは、この女学生たちは、その後どういう人生を生きたのだろう、ということです。結婚をし、子供を産み、そして育て、また、働き、老い、やがて死んでいったのです。中には、空襲で死んでいった者もいるかも知れない。夫や子どもを戦争で失った人も少なからずいることでしょう。
一人一人の顔を眺めていき、思わず長い時間を過ごしてしまいました。
来る10月15日(日)、厚木市文化会館で、百周年記念文化部発表会で、「青葉会」の方が、戦争体験について講演されるとのことです。
では、また。
追加「夕焼け小焼け」の歌詞)※作曲者は草川信
1 夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
おててつないでみなかえろう
烏(からす)といっしょにかえりましょう
2 子供がかえった あとからは
まるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは
空にはきらきら金の星
☆作曲者の「草川信」についても、ネットで検索すると、いろいろ出てきますよ。
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