鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その6

2013-10-09 05:30:34 | Weblog

 「田老地区海岸災害復旧事業」の看板を見た後、そこから更地の中の通りを進んで国道45号線へと出たところ、そこには「田老中町」と書かれた岩手県北バスのバス停がありました。

 「中町」とは、その町の中心街のこと。場所によっては「仲町」であることもある。

 国道の両側はもちろん商店や人家はなく、夏草が生い茂っています。

 そこから車を停めてあるところに戻り、車に乗って国道45号線を少しばかり走らせると、左手に2枚の、市街地のようなもの描かれた看板を見掛けたので、車から下りて近寄ってみたところ、それは、1枚は「田老地区土地区画整理事業完成予想図」であり、もう1枚は「乙部団地完成予想図」というものでした。

 「乙部団地完成予想図」にはカッコ書きで、(田老地区防災集団移転促進事業)とあり、問い合わせ先はいずれも「宮古市都市整備部都市計画課」でした。

 「田老地区土地区画整理事業完成予想図」は、国道45号線と第一防潮堤を軸とした土地区画の完成イメージを描いたもの。

 「乙部団地完成予想図」は、乙部地区の山間部に平地を切り開いて、そこに大規模な住宅団地が出来上がっている様子を描いたもの。

 住宅団地は、碁盤の目状にきれいに区画されていて、そこに一軒一軒の住宅が建っています。

 高台への大規模な集団移転の計画です。

 私はこの絵を見て、巨大ダムによって集落がなくなった時、その集落が移転した、代替地に造成された団地を想起しました。

 たとえば、私の家の近くに宮ケ瀬ダム(神奈川県)がありますが、かつてそこには宮ケ瀬村がありました。その住民の代替地(移転先)の一つとして宮の里(厚木市)というところがあります。その団地は碁盤目状にきれいに区画されていて、そこに一軒一軒規模の同じような住宅が建ち並んでいます。

 同じ地域の見知った人たちが、代替地として切り開かれ、区画整理された場所へと集団移転する、といった点においては共通しています。

 総合して考えてみると、防潮堤内側の国道45号線沿いには商店や事務所、あるいは工場などが建ち並び、被災した住民の住宅については、その多くが乙部団地という高台の団地へと一括される、ということであるように思われます。

 この土地区画整理事業や防災集団移転促進事業が、どのような経緯を経てこのようにまとまっていったのかはわかりませんが、田老の被災者たちの声が反映されたものであると考えるならば、田老の人たちは明治29年、昭和8年、そして平成23年の巨大津波の被災の経験を経て、住宅の高台への集団移転を決断することになった、ということが出来るようです。

 それほどの深刻な体験であったということでしょう。

 その立て看板のあるところから国道45号線と平行する幅の広い中央通りへと入り、途中で左折して突き当り右手にあった田老第一中学校のグラウンド前へと出ました。

 この中学校は高台にあり、津波の被害を受けたようには見えませんでした。グラウンドと校舎の間にある二宮尊徳像もそのままに立っています。

 グラウンド手前には真新しい案内表示があり、それには「←260m 赤沼山高台 津波避難場所」と記されていました。

 鉄筋コンクリート3階建ての校舎の左手にある山は「赤沼山」であり、その裾野のところの高台に、この田老第一中学校は位置することになります。

 しかしこの中学校の敷地のすぐ海側の少し低くなった平地は、夏草の繁る更地となっており、この敷地の基礎をなしている石積みの側面のところまで、津波は押し寄せたものと思われました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『三陸海岸大津波』吉村昭(文春文庫/文芸春秋)



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