鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-大月~笹子峠まで その5

2017-09-08 07:39:51 | Weblog

 

 国道20号の「東京から100km」地点で行く手(西南西)方向に見える山は、鶴ヶ鳥屋山(つるがとややま・標高1374.4m)で、ゆるやかに右手に曲がるカーブを進んで左手方向(北西)に見えてくる山が滝子山(たきごやま・標高1590.3m)。

 そこからまもなく右手にある屋敷の前庭に国道に面してあったのが、「山本周五郎生誕之地」と刻まれた石碑でした。

 山本周五郎については、山梨県立文学館で『曲軒・山本周五郎の世界─読者の支持を賞とした作家─』を購入したことがあり、山本周五郎が山梨県の初狩の生まれであることは知っていましたが、初狩のどこかは知りませんでした。

 この生誕地を示す石碑のある位置から考えれば、山本周五郎の生家は甲州街道に面していたことになります。

 山本周五郎の本名は清水三十六(さとむ)。

 北都留郡初狩村八十二番の奥脇家の長屋で、明治36年(1903年)に、父逸太郎、母とくの長男として生まれました。

 「三十六」の名は、周五郎が生まれた明治36年に因(ちな)んでいます。

 その4年後の明治40年(1907年)8月22日から26日にわたる豪雨による山津波で、この初狩村も壊滅的な被害を受け、祖父伊三郎、祖母さく、叔父粂次郎、叔母せきの4人を失いました。

 三十六(さとむ・後の山本周五郎・当時4歳)の一家は大月駅前に住んでいたため難を逃れ、その後、清水一家は東京に移り住むことになりました。

 下初狩寒場沢(かんばさわ)においては、8月25日午前6時半頃より同8時20分にわたって前後3回の大崩落があって、倒壊戸数52戸、埋没して死亡した者が26人、埋没して死んだ馬が7頭、また立河原付近は河川氾濫のため民家37戸が流失しました。

 山本周五郎の生家(奥脇家の長屋)は、おそらくこの8月25日朝の山津波によって土石流に埋もれ、その長屋に住んでいた祖父母、叔父夫婦、合わせて4人が死亡したのです。

 この土石流は、ほんの北側を流れる笹子川およびその支流によってもたらされたものと考えられます。

 この明治40年8月の豪雨は、山梨県下各地に甚大な被害を生みだしました。

 大月市郷土資料館の展示パネルによると、この年の8月の笹子川の氾濫によって大きな被害を受けたのは、笹子村・初狩村・広里村(現大月市)で、うち初狩村では被害戸数133戸809人、死者44名を出し、田畑・宅地のほとんどが荒地になってしまったという。

 展示写真として、水害直後の「初狩地内」「笹子川」(笹子川の土砂で埋まった河原と沢の上流を写したもの)を写した2枚が展示されており、土石流のものすごさを示しています。

 「初狩地内」の写真では、流れてきた土石で埋まった笹子川の河原を、炎天下、日笠をさし列をつくって歩く多数の村人たちの姿が写っています。

 山本周五郎生誕之地の石碑前をすこし過ぎたところで、「初狩駅前」の信号があり、そこで左折すると正面の山の麓にJR初狩駅の建物が見えました。

 駅前で「初狩駅周辺観光案内板」を確認。

 近くには高川山(975.7m)、鶴ヶ鳥屋山(1374.4m)、滝子山(1590.3m)などがありました。

 駅前には「鶴ヶ鳥屋山 滝子山←」「高川山→」の案内表示もあり、この3つの山がこの初狩駅から登ることができる代表的な山であることを知りました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『曲軒・山本周五郎の世界』(山梨県立文学館)



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