鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-大月~笹子峠まで その6

2017-09-09 08:34:51 | Weblog

 

 JR初狩駅から国道20号に出て左折すると、まもなく「宮川」を「宮川橋」で渡ります。

 宮川は左手から笹子川に流れ込んでくる川で、その上流は鶴ヶ鳥屋山(つるがとややま)に至ります。

 鶴ヶ鳥屋山は頂上が三角形に見える山で、真木諏訪神社を過ぎたあたりから行く手前方に見えてくるランドマークのような山。

 甲州街道を西へと進む旅人にとって、扇山、岩殿山、そしてこの鶴ヶ鳥屋山などはランドマークのような(目当てとなるような)山であったものと思われます。

 この宮川に架かる宮川橋からは「宮川橋の一目富士」と言って、鶴ヶ鳥屋山の頂き右側あたりに富士山の頂きが見えるそうですが、この日はあいにく雲がかかって見えませんでした。

 犬目宿から見えた富士山は、しばらく街道筋からは見ることができず、ようやくこの下初狩宿の宮川橋に至って、その頂きをわずかに見ることができました。

 この宮川橋からは右方向に滝子山(たきごやま)の山容を見ることもできます。

 「藤沢入口」のバス停を過ぎると、「↑甲府 甲州 ←都留」の道路標示。

 その道路標示を潜ってしばらくして右手に「甲州街道 中初狩宿」の案内表示があり、その右側に芭蕉句碑がありました。

 「山賤乃頤登つる葎哉」

 と刻まれています。

 「やまがつの おとがいとづる むぐらかな」

 と読むようです。

 松尾芭蕉は貞享2年(1685年)の4月18日(旧暦)、勝沼宿を出立して笹子峠を越え、初狩宿を経ておそらく谷村(やむら)に至っています。

 芭蕉は天和2年12月28日(旧暦)に発生した江戸の大火(「天和の大火」「お七火事」)で深川の芭蕉庵が焼失したため、翌天和3年(1683年)の早春から初夏にいたるまで約半年間、谷村の秋元藩家老高山伝衛門(俳号麇塒〔びじ〕)の援助により谷村に滞在しています。

 芭蕉が貞享2年に谷村に立ち寄ったのは、お世話になった高山伝衛門に会うためであったと思われますが、谷村に立ち寄った後、再び甲州街道に戻って江戸深川へ戻っています。

 貞享元年(1684年)の秋から翌2年の4月にかけて、芭蕉は門人千里とともに生まれ故郷である伊賀上野に行き、帰りは中山道から甲州街道を経て江戸に戻りました。

 この時の旅日記が『野ざらし紀行』で、「山賤の…」の句はこの『野ざらし紀行』に収められています。

 甲州谷村への道筋での句ということですが、どこで詠まれたのかはわからない。

 「山道にはつる草が生い茂って藪のようになっており、そこを通る木こりや猟師なども、藪やとげが口に入らないように口を閉じて黙って歩いている」

 といったような意味。

 この初狩宿から花咲宿までの間で谷村へと至る道筋としては天神峠(尾曽後峠=鎌倉街道)を越える道が最もふさわしいように思われます。

 はっきりしたことはわかりませんが、笹子峠を越え初狩宿を通過した芭蕉は、花咲宿の手前で右折しこの天神峠を越えて谷村に至った可能性が考えられます。

 つまり「山賤(やまがつ)」に芭蕉が出会った「葎(むぐら)」が茂る山道は、天神峠(尾曽後峠)が可能性として考えられるわけですが、ここで私が想起するのは郡内の男たちが「山稼ぎ」をしていたことです。

 「山稼ぎ」と「駄賃稼ぎ」(馬による運送)は、山間部の村々に住む男たちの農間(のうま)余業の代表的なものであり、現金収入を得る貴重な手立てでした。

 芭蕉は郡内谷村に半年ばかり滞在し、当然のことながら、郡内各地を歩き回ったのではないでしょうか。

 富士山が見える峠道なども歩いたことでしょう。

 そのような峠道では「山稼ぎ」をする土地の男たちや猟師たちと出会うこともしばしばであったろうと私は推測します。

 明治40年(1907年)の8月、初狩村は笹子川の氾濫と土石流により甚大な被害を受け、田畑や家屋が流失してしまいますが、田んぼは少なく、流失した畑は多くが桑畑であったはずです。

 養蚕により生糸が生産され、生糸により絹織物(郡内織・甲斐絹)の生産が各農家では行われていたことでしょう。

 絹織物の生産(機織り)は江戸時代から女たちの仕事であり(「絹稼ぎ」)、男たちの仕事は依然として「山稼ぎ」であり「駄賃稼ぎ」(馬による運送)であったと思われますが、この明治40年8月の「山津波」は、そのような山間部の村々の生活に深刻な打撃を与えたことは容易に想像されることです。

 「養蚕」による生糸の生産や「絹稼ぎ」、また「山稼ぎ」などで現金収入を得ていた山間部の村々は深刻な打撃を受け、大月市郷土資料館の展示パネルにあったように、山梨県は3回にわたって罹災者たちを北海道虻田(あぶた)郡に移住させるといった事業を行う事態に至りました。

 「北海道へ移住した罹災者の状況」には、笹子・初狩・広里・賑岡・七保・大原・富浜・梁川といった各村の3回にわたる北海道移住の戸数と人口が示されていました。

 

 続く

 

〇参考文献

・松尾芭蕉の初狩・谷村関係のネット情報



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