鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

中江兆民とフュウレ神父 その1

2007-06-08 06:11:41 | Weblog
 フュウレ神父(ルイ・フュウレ)は、1816年に、フランスのマイエンヌ県のコメールという小さな村に生まれました。マイエンヌ県というのは、24時間耐久レースで有名なル・マン(サルト県)の近く。

マイエンヌの中等学校を卒業した彼は、1837年に、お隣の県であるサルト県のル・マン大神学校に入学し、その2年後には司祭となっています。

 その後、サルト県のブルシニェ小神学校で物理学や自然科学を教えていますが、1845年にはパリに出て、スタニスラス・カトリック中等学校およびソルボンヌで学んでいます。

 1847年、フュウレは理系バカロレア(大学入学資格)を得ていますが、大学には行かず、宣教師としての道を考え始めます。動機がなんであったかはよくわかりませんが、すでに何人かのフランス人宣教師が滞在している琉球(および日本)に強い関心を持つようになっていたのではないかと思われます。

 1852年、36歳のフュウレは、パリのバック通りにあるパリ外国宣教会の神学校に入学。その翌年に中国に向けてパリを旅立ちます。

 そのフュウレが、念願の琉球に上陸したのは1855年2月27日(西暦・以下同じ〔和暦1月11日〕)。ジラールおよびカション両名の神父と一緒でした(この2人もパリ外国宣教会の宣教師)。

 那覇に上陸した3人は、天久村の聖現寺に入り、日本入国に備えて日本語(実は琉球語であったとのこと)の学習を始めました。

 しかしフュウレは2ヶ月足らずで那覇を離れ、平戸沖→長崎沖→香港→箱館→サハリン→オホーツク海→黒龍江の河口までを船で回った後、1856年10月26日に、ムニクゥ神父とともに再び琉球那覇にやって来ます。

 やがてカションとジラールは、公使や総領事の通訳(この2人は、この頃までには日本語をそれなりに習得している)として日本に赴き、琉球に滞在するフュウレとムニクゥのもとに新たにプティジャン神父が加わるのが1860年の10月。プティジャンがやって来ると同時に、ムニクゥは横浜へ向かったので、フュウレはプティジャンと2人で琉球で日本語を学ぶことになります。

 1862年、フランス公使館の公用で香港に立ち寄ったジラールは、琉球に滞在中のフュウレとプティジャンの両名を横浜に派遣することを決定。

 その年の11月(西暦)、フュウレはプティジャンとともに横浜に上陸します。

 そしてそのフュウレが、長崎に姿を現すのは1863年1月22日。まず出島のオランダ人の屋敷に身を寄せ、その後、フランス長崎領事レオン・デュリーとともに、長崎奉行が手配した大徳寺(本籠町)に居住することになります。

 その長崎で、フュウレは教会を建設する計画を進めました。

 興味深いのは、この大徳寺滞在中のフュウレのもとに、日本人の生徒がフランス語を学びにやってきていること。

 まず15歳くらいの若い「サムライ」がフュウレを訪問し、彼にフランス語を教えてくれと申し出ます。さらに生徒は増え、計4人の生徒にフュウレはフランス語を教えることとなりました。この生徒たちは、長崎奉行の許可のもとにフュウレのもとに通ったはずですが、いったい誰であったかは今のところわかりません。

 この年(1863年)の8月初旬、プティジャンが横浜から長崎に到着。フュウレは新築されたばかりの家(司祭館)にプティジャンを迎え、近いうちに建設される教会の図面と、その教会の建てられる土地(大浦の外国人居留地の隣)をプティジャンに見せます。

 1864年、大村町に「語学所」が設けられ、そこでは英語・ロシア語・フランス語が教えられていますが、そこでフランス語を教えたのは、平井義十郎・志筑龍三郎、それにフュウレとデュリー(後にプティジャン)。ちなみに英語を教えたのは、何礼之助・柴田大介、それにフルベッキでした。フュウレは、長崎奉行の依頼により、12名ほどの生徒にフランス語と理系の学問(彼はフランスで理系の学問を修めていたので)を教えたようです。

 その年の暮れ、フュウレは家庭の事情により突然帰国の途につきます。その代わりとしてローカニュ神父が横浜から長崎に来て、プティジャンとともに教会建設を続行することになります。

 大浦居留地の教会(「フランス寺」)の落成式が行われたのは1865年2月19日。長崎における教会建設を当初から進めてきたフュウレは、したがって、この落成式には参加していません。また、プティジャンの「信徒発見」の際にも、もちろんフュウレはいない。

 そのフュウレが、フランスからクゥザン神父を伴い、またまた長崎にやって来るのが、1866年の5月7日。

 フュウレは、プティジャン、ローカニュ、クゥザンとともに、毎晩のように押し寄せてくるキリシタンたちに、教理を教えたり秘跡を授けたりする傍ら、新町の済美館でフランス語を教えることになりました(おそらくプティジャンを引き継ぐ形で)。

 この年の夏、済美館にフランスのパリからの輸入教科書が届きます。文法書である『ヌーウェル・ガラメール・フランセー』や字典である『ガラメール・フランセー・エレマンテール』などでした。

 当時済美館に在学していた中江兆民(篤助)は、このフュウレより、フランス語文法を原書である『ヌーウェル・ガラメール・フランセー』により初めて教わることになりました。

 この年の10月、プティジャンは香港に赴き、そこで司教に任命されました。上海を経て横浜に赴いたプティジャンは、フランス公使であるロッシュやジラールらと会いますが、おそらくその時に、ロッシュ公使とヴェルニーより宣教師の横須賀派遣を要請されます。

 なぜ横須賀なのか。

 これには、横須賀製鉄所の建設事業が関わっているのです。

横須賀製鉄所の建設が、幕府勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ・1827~1868)とフランス公使ロッシュとの間で立案されたのは、元治元年(1864年)。幕府軍艦「順動丸」で横須賀湾を検分したロッシュらは、入江の様子がフランスの軍港ツーロンによく似ているとして、戸数200余りの小漁村横須賀村を製鉄所(造船所)立地に決定しました。

 幕府側とフランス側との間で約定書が交わされたのは、翌元治2年(1865年)の2月24日(和暦1月29日)。製鉄所一ヶ所、修船場三ヶ所、武器蔵および役人や職人等の住居を建設するというもので、4年間に240万ドルという巨額の費用をかけて整備するという構想でした。

 フランス海軍の造船技師として来日していたフランソワ・ヴェルニー(1834~1908)は、直ちに技術者雇い入れと機械購入のためにフランスに向かい、翌年6月(西暦)に日本に戻って来たヴェルニーは、早速横須賀に来て製鉄所の建設事務を推進しました。

 横須賀にやってきたヴェルニーの眼前には、造成された土地に首長官舎や医師官舎、集会所などが完成しており、またフランス人のための教会(天主堂)や司祭館が建設されていました。

 ヴェルニーは、製鉄所建設地の横須賀が外国人の遊歩区域外であったにも関わらず、フランス人のための教会と司祭館の建設認可を幕府から獲得していたのです。

 ヴェルニーは、プティジャンに対して宣教師(フランス語と理系の学問を教育できる宣教師)の派遣を依頼。フュウレはプティジャンの意を受けて、横須賀製鉄所のフランス人居留区の司祭にしてほしいという旨を上層部に伝え、この配属はすぐに認められることになりました。

 「親愛なるフュウレ神父、新しい任務を担うことができるのは貴殿しかおりません。貴殿だけが学問を真摯(しんし)に研究し、教育した経験がおありだ」

 とプティジャンが言うように、フュウレは、スタニスラス・カトリック中等学校で、物理学・化学・自然科学の研究助手の職務を認可されたことがあり、また理系バカロレアを授与されていました。また長崎の語学所や済美館で、日本人学生相手にフランス語を教えるという経験もしています。ヴェルニーの希望する宣教師としてうってつけの人物でした。

 フュウレが思い出多い長崎を出港するのは、1867年の6月(西暦)〔和暦では5月頃〕。済美館の教師をいつ辞めたのかはわかりません。

 長崎を出港したフュウレは横浜に到着。横浜から小蒸気船(当時、横浜~横須賀間を週3回運航していました)に乗って、横須賀に到着。まずは、丘を削った台地上にあるヴェルニーの官舎に逗留します。

 このヴェルニーの官舎については、『目で見るよこすか100年』(横須賀市広報課編集)に写真が出てきます。

 ヴェルニーは、工事に着手する前の横須賀村の姿や製鉄所の建設過程などを、フランス人舎密(セイミ・化学)係のボエルという人物に写真に撮らせています。その写真記録の一部がフランスのヴェルニー邸に残されていたことにより、当時の横須賀村および横須賀製鉄所の建設の進捗(しんちょく)状況を私たちは知ることが出来るのですが、そのP22の、やや高台にある、工場右手の白い2階建ての建物がヴェルニーの官舎です。

 このヴェルニーの官舎は、P31にも出てきます。中央高台の建物で小さな木造の厩(うまや)が併設されており、その厩には臭気抜き(?)の煙突が設けられています。その官舎の下の隣地には、細長い製鋼工場が建設されており、その工場には入江に面してなんと時計塔が設(しつら)えてあります。

 この本には、横須賀のフランス人居留地に設けられた教会(天主堂・フュウレはここの初代司祭となりました)の写真も出てきます(P24)。写真右手の、2階建ての高さのある建物が教会です。

 また『市史研究 横須賀』の第6号にも、「横須賀製鉄所天主堂」の写真が出てきます。正面に入口があり、その正面玄関の上に大きな窓があり、側面の壁にも三つの大きな窓があります。2階建ての高さを持っていますが、おそらく中は2階建てにはなっていないでしょう。天井の高い教会風の内部であったと思われます。

 この教会の内部、左右の壁には、14枚の「十字架の道行図」の絵が掛けられていたと伝えられており、その一枚、「イエズス 十字架よりおろされ給う」場面を描いた絵が、やはり『市史研究 横須賀』第6号に載っています。

 そこには、天主堂について、次のように説明されています。

 慶応元年(1865)9月に起工。フランス人のため天主堂(80坪)が建設され、慶応三年(1867年)8月25日(西暦)に献堂式が行われ、聖ルイ教会と呼ばれる。初代司祭は、パリ外国宣教会のルイ・フュウレ神父。明治13年(1880年)、フランス人も全員が帰国。天主堂は閉鎖される。

 フュウレの住む司祭館は、その「美しい教会」(フュウレ)に隣接していました。

 フュウレが日本を去るのは、横須賀に移ってから2年少し後の1869年10月3日。

 こ2年余の間に、フュウレの身辺にはどういうことがあったのか。なぜ、フュウレは、わずか2年余で日本を離れフランスに戻ったのか。

 それらのことについては、次回以後にまとめてみたいと思います。


○参考文献

・『市史研究 横須賀』第6号(横須賀市総務部総務課)
・『人物中心の日本カトリック史』池田敏雄(サンパウロ)
・『日本キリスト教復活史』フランシスク・マルナス/久野桂一郎訳(みすず書房)
・『横須賀市史』(上巻)
・『目で見る よこすか100年』(横須賀市広報課)
・『幕末から戦後まで ふるさと横須賀(上)』石井昭(神奈川新聞社)


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