鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その9

2009-11-13 07:23:17 | Weblog
 さらに道を進むと、左手に「河口湖大橋」の標示が現れました。山際(左手)をもう1本、道が分岐していきますが、今歩いている道は「河口湖大橋」へと続きます。「河口湖大橋」を渡っても仕様がないので、「河口湖大橋北」交差点を左手の山際の道へと進みました。この道はやがてトンネルに入りますが、このトンネルの名前は「産屋ヶ崎トンネル」というものでした。ということは、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』のP17の上、例の菅笠をかぶった3人の船頭らしき男たちが写る写真の、河口湖に落ち込む山の出っ張りは「産屋(うぶや)ヶ崎」ということになる。

 この産屋ヶ崎トンネルの手前左手には、3段の四角い石垣が二つ並んでいますが、道祖神の土台でもあるようですが道祖神自体はなく、どういう施設であるのかはわかりませんでした。

 このトンネルを潜らないで、その右側から湖畔沿いに続く道へと入っていきました。この道からは河口湖に架かる河口湖大橋がよく見えます。

 道を進んで行くと、狭い石段があって、その手前に「献燈」と刻まれた新しい石灯籠が立っています。産屋ヶ崎の突端には神社らしきものがあるようです。ということでその狭い石段を上がっていくと、石の祠(ほこら)に屋根を設け、また鳥居を設けた施設がありました。賽銭箱もちゃんとある。案内板があり、その薄く読みにくくなってしまっている文字を読んでみると、この神社の社名は「産屋ヶ崎神社」。祭神は「産火火出見尊(ひこほほでみのみこと) 俗称山彦」と「豊玉姫命 乙姫」とある。

 思うに、この産屋ヶ崎の突端の高台は、霊峰富士山の遥拝所であったと思われます。河口湖の湖面の向こうに富士山が真っ正面に見えるからです。絶好の遥拝所であったに違いない。この遥拝所において、人々は富士山を仰ぎ見、富士山に手を合わせたものと思われます。その遥拝所にいつの頃からか石の祠が置かれ、それが「産屋ヶ崎神社」となったのでしょう。

 石段を気を付けて下り、右折して道を進むと、左手に「冨久澄キャンプ場」の管理事務所のような家がありました。「キャンプ場入口」という看板もある。

 その前でたまたま出会ったおじいさんに、携帯していた古写真を見てもらいました。このおじいさんは古写真を見ながら、いろいろなことを教えてくれました。

・河口湖では、公魚(ワカサギ)や鮒、鯉、うなぎなどが獲れるが、7月となると、この写真に写っている男たちは漁師ではなく、渡し舟の船頭だろう。

・この舟は和船であり、大石にそれを造る専門の人がいた。

・かつて鎌倉街道は山の上を越えていた(産屋ヶ崎の上を越えていた)。
  ※今は、産屋ヶ崎トンネルがあって、そこをトンネルで潜れるようになっている。

・和船の材料はカラマツで、その「シラタ」と呼ばれる中身の部分。栗の木ではない。カラマツの外側は「赤身」と言って、これは腐りやすくて船材にはならない。
 ※そう言って、おじいさんは道端に置いてあった丸太の切り口を見せてくれました。この木材がカラマツで、切り口を見ると、確かに外側のところは「赤身」と呼ばれるように赤味があってところどころスカスカとしています。それに対して内側の部分は白く、年輪が詰まっています。この内側の部分が「シラタ」で、堅く、腐りにくいのです。何に使うのか、切り口のところに線が入っていて、その部分を切る予定のようです。

 このカラマツの「シラタ」の部分を使って和船を造ったというのです。そのおじいさんの話によると、古写真に写る渡し舟(3艘)の船材は、このカラマツの「シラタ」であるという。

・この古写真に写る場所は渡船場である。場所はセブンイレブンのあるあたり。

・P16の上と下の写真の場所はよくわからない。下の写真の湖面に生えているのは葦(よし)であり、昔はこの産屋ヶ崎の裏手(北側)に葦が生えていたが、この写真の左手に見える島のようなものは産屋ヶ崎ではない。

・P15下の「河口村の風景」の通り両側に敷いてあるのは茣蓙。この写真の右端の家の屋根向こうに見える森は浅間神社の杜である。この茣蓙は養蚕関係のものであるだろう。この河口村は宿場でもあった。この河口には中村や倉沢といった苗字が多い。かつてこの道をトテ馬車が走っていた。「強力(ごうりき)」もいた。


 いろいろなことをよくご存知なので、この河口のお生まれかと思ったら、そうではなくて富士吉田の駅の近くの生まれでそこに地所があるとのこと。どうもこのおじいさんは、このキャンプ場の管理人か持ち主の方であるらしい。

 湖畔へと下りていく道があったので、この道の先に何があるのかとお聞きしたところ、「オカダコウヨウ」の碑があるよ、とのこと。横山大観や徳冨蘇峰、朝倉文夫の名前も出てきました。

 私は、「オカダコウヨウ」の名前を知らず、「尾崎紅葉」かと思いましたが、実は「尾崎紅葉」ではなく「岡田紅陽」でした。

 その碑が突端のところにあるというのです。

 ということで、その湖畔へと下りる道へ入ってみることにしました。


 続く


○参考文献
・『富士吉田市史研究』第2号、第4号所載、上記論文
・『ケンブリッジ大学明治古写真』(平凡社)


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