鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その最終回

2010-12-19 06:28:57 | Weblog
 豊受(とようけ)神社の玉垣には、「宇田川測量 宇田川敬之助」とか「宇田川与左衛門」とか「浦安漁業協同組合」などと刻まれた朱色の文字がずらりと並んでおり、その刻まれた名前を見ながら、社域へと入りました。

 まず「大銀杏」の案内板がありました。かつて境川の河口を流れていた小さな木を、村人が拾って豊受神社の境内に植えたものだといい、樹齢は数百年以上に達するもの。しかし明治40年(1907年)頃、外周3mほどであった幹が高潮などの影響で枯れてしまい、現在の株立ちは、そのまわりに生えていた萌芽枝(ほうがし)が大きくなったものだとのこと。根の周囲は8m、高さは14mにおよぶ銀杏の大木。

 しかし、その黄色い銀杏の葉は、かなりが散ってしまい多くの枝がむき出しになっていました。

 富士塚は社殿の左手にありました。

 白い石鳥居に赤い額が掛かっており、それには白く「浅間神社」と記されています。その石鳥居の背後にゴツゴツとした黒い富士塚が、まるでその地面から溶岩が湧き出てきて盛り上がったような形で鎮座しています。その黒岩は、もちろん富士塚につきものの墨石です。

 富士塚には石祠や石碑が埋め込まれ、「六合目」「七合目」「天地堺 稲荷大明神」「玉」「不二」などといった朱色の文字が刻まれています。

 石鳥居と富士塚の間には、「秋葉大権現」や「金比羅大権現」の石祠があり、また「改山紀念碑」と浮き彫りにされた古い石碑もあって、その碑には「世話人」の名がずらりと刻まれ、その中には「宇田川」「泉澤」「金子」「大塚」といった姓が多く見られる。「世話人」の名前は、「一組」から「四組」に分けられています。

 この富士塚の右手奥には、「三峰神社」という額が掛かる石鳥居もありました。

 「浅間神社」「金比羅大権現」「秋葉大権現」「三峰神社」が、「豊受神社」はもちろんのこととして、この地域の人々の信仰の対象であったということです。

 「富士塚」と記された案内板も立っていました。それによると、もともとこの豊受神社の一隅に、浅間神社を祀った小さな山があって、その上に氏子たちが畑の土を盛り上げ、墨石を購入してまわりを固め、富士山をかたどった山を造ったのがこの富士塚で、造られたのは大正13年(1924年)のこと。頂上に木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀った石造りの浅間神社を安置し、山の中腹には「中道まわり」という道を造ったという。

 大正13年というと、その前年の9月1日には関東大震災が発生しています。その翌年に造られたことになります。「改山紀念碑」に刻まれている「世話人」の名は、その時に関わった人々の名前であるでしょう。

 境内には大きな石造りの常夜燈もあり、それには「深川 与」と刻まれています。朱色の文字で、「与」の字が大きく刻まれています。その「深川 与」という文字は、参道の狛犬(こまいぬ)の墨石のような土台にも刻まれていました。

 参道からいったん外へと出て、境内地の外側をぐるっと回ってみることに。

 このあたりは「猫実三丁目」の一番地にあたるらしい。

 通りを入っていくと「公訴貝猟願成(こうそかいりょうがんじょう)の塔」と記された案内板がありました。

 それによると、江戸時代も後期に入った頃(天明年間)のこと。堀江・猫実村(浦安)と、船橋村の漁師たちが、漁場の境界をめぐって争っており、船橋村は「三番瀬」を船橋村の漁場であると主張し、堀江・猫実村側は、それは「入会(いりあい)漁場」であると主張していました。

 猫実村に、長三郎・長兵衛・善三郎という人物がいて、そのうち長三郎は一人で代官所に乗り込み交渉しようとするものの天明2年(1782年)に獄死。それを知った長兵衛が、老中田沼意次に駕籠訴(かごそ)するものの、その場で捕えられ、その後釈放されたものの船で帰る途中に、小名木川あたりで死去。2人の友を失った善三郎は、成田の不動様に21日間の願掛けをするのですが、天明3年(1783年)3月4日、参拝からの帰途、大雪と吹雪のために死んでしまいました。

 その3人を失ったことで、堀江・猫実両村の結束は一層深まり、ついに天明8年(1788年)、この訴訟において勝利を勝ち取ったのだという。

 この石塔は、「天明の三義人」として、村の発展に尽くしたその3人の業績を長く後世に伝えるために、明治22年(1889年)に村人の浄財によって建立されたもの。

 その訴訟に中心的に関わったのが「花蔵院」の「宥賢(ゆうけん)和尚」であり、その案内板は、その新義真言宗の花蔵院の境内にありました。

 黄色く輝く銀杏の葉を見上げながら、路地をぐるっと回って、富士塚の裏の方に出ました。表から見てもそうですが、この富士塚は、先の清瀧(せいりゅう)神社のそれに較べると荒々しい。ねばっこい溶岩がにょきにょきと盛り上がっていったような感じです。

 ふたたび表通りに出て、「葛西橋通り」方面へと向かいました。途中、右手に、板壁で瓦葺きの豪壮で古い造りの民家を目にしました。

 「葛西橋通り」(「やなぎ通り」)に出て左折。地下鉄東西線(東京メトロ)浦安駅前に出たのが12:35。

 途中「木場」で下車して、木場→門前仲町→隅田川テラス→吾妻橋と歩き、夕暮れ前の隅田川を渡って、地下鉄浅草線で帰途に就きました。


 終わり



○参考文献
・『青べか物語』山本周五郎
・『新編 川蒸気通運丸物語』山本鉱太郎(崙書房出版) 


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