昨年の夏は、三陸海岸の津波被災地を車で走り、そしてところどころを歩いて取材報告をしました。これで3年間にわたっての、千葉県から始まって、青森県に至る東日本大震災の津波被災地を、そのすべてではもちろんありませんが、そのおおよそのところを自分の目で見る取材旅行を終えました。「見る」ことを中心とした素通りとも言える取材旅行であり、被災地の人たちと話をする機会もほとんどなかったのですが、津波という自然災害の、予想を超えた威力というものをまざまざと感じ取ることができました。人間は自然とどう付き合えばいいのか、人間にとって大切なものとは何なのか、身近な景観が根こそぎ失われてしまった中で、被災地の人たちはどういう地域づくりを試みようとしているのか、といったことを、更地(さらち)になってはいるもののコンクリートの土台がむき出しになっている住宅地や、黒い墓石が林立している墓地を歩きながら、考えさせられました。一方で東北東海岸の取材旅行で私が関心をもっていたことは、利根川河口の港町銚子へと通ずる海の物流ルートでした。東北地方で生産された米(年貢米)が江戸へどのように運ばれたのか。いわゆる「廻米ルート」の実態です。阿武隈川や北上川など大河の河口部は、水上交通(河川)と海上交通の接点として、特に興味関心がありました。その河口部は津波被害の最も深刻なところでもありました(たとえば石巻)。その物流ルートへの関心は、江戸→隅田川→小名木川→江戸川→木下(きおろし)街道→利根川を経て銚子へと旅した渡辺崋山の足跡を歩いたところから生まれています。将軍のお膝元、江戸の経済は東北地方から運び込まれてくる米でその多くを支えられていたという、私にとっては新鮮な発見があったのです。江戸時代においては、水上交通と海上交通によって大量の物資が輸送されていたという再認識は、私に以前からの「北前船」の関心を呼び起こしました。その関心は特に中江兆民の旅の足跡を追って、北海道の西海岸を小樽から稚内にかけて取材旅行した時に生まれたものでした。私が生まれたところの近くにあって、よく海水浴などに出掛けたことのある日本海に面した港町、三国への関心もずっと以前からありました。「北前船」のルート、これを調べてみたいと思い、まず青森から始めることにしました。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む